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島崎晋「投資の日本史」

織田信長が「鉄砲の量産化」で実現した“戦場のイノベーション” 最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握、火薬と弾丸を安定的に調達するリスクマネジメントも【投資の日本史】

鉄砲を「武力」に変えた信長の「投資とリスクマネジメント」とは?(Avalon/時事通信フォト)

鉄砲を「武力」に変えた信長の「投資とリスクマネジメント」とは?(Avalon/時事通信フォト)

 16世紀日本の戦国時代は、織田信長による天下統一事業が画期となり幕引きが始まった。ではなぜ、並み居る戦国大名のなかで織田信長だけが他を圧倒することができたのか。その理由は数々指摘されているが、なかでも歴史作家の島崎晋氏が注目するのは、戦国日本の新兵器「鉄砲」への投資だ。島崎氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第10回は、それまでの「合戦」のあり方をがらりと変えた信長による「戦場のイノベーション」について考察する。(第10回)

 武田信玄と織田信長の直接対決が実現していれば、どうなったか──。三方ヶ原の戦い(1573年)で徳川家康を粉砕した信玄がその勢いのまま信長と激突していれば、勝てたのではないか、歴史が大きく変わっていたのではないか。武田ひいきの歴史愛好家ならついつい想像の幅を広げたくなるところだが、歴史学のプロにはロマンに身を任せることは許されない。中世史を専門とする本郷和人(東京大学史料編纂所教授)は著書『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の中で、〈より多くの兵を養える者こそが合戦の勝者となる〉とし、〈信長が負けるはずがありません〉とまで断言する。

 武田信玄は20年の歳月をかけてようやく甲斐、信濃60万石を手に入れた。対する織田信長は30代半ばで150万石を手に入れており、その石高から動員可能な兵力は武田軍1万5000人に対して織田軍は4万人。これだけ兵力差があっては、一騎当千の英雄豪傑がいたとしても、知恵を絞った戦法・戦術の限りを尽くしたとしても結果を変えることはできないというのが、本郷前掲書の論旨である。

 だが、信長が常に複数の敵を相手にしていたことを考慮すれば、版図の急拡大を可能にした要因が兵の多さだけとは考えにくい。やはり15世紀中頃に伝来した鉄砲の果たした役割が、途轍もなく大きかったのではなかろうか。

上洛後「全国一の鉄砲生産地・堺」を直轄地化した

 織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのは永禄11年(1568年)9月のこと。それから1年余で畿内隣国をあらかた平定するが、その中には自治都市の堺も含まれていた。

 堺は摂津・河内・和泉の3国の境に位置し、どの戦国大名にも属さず、有力商人からなる会合衆により運営されていた。町全体を南・北・東の三方に堀を構え、多数の浪人を雇っていたから、都周辺の戦国大名は堺と手を組むことはあっても敵に回すことは避けていた。

 ところが信長には交渉も譲歩もする考えはなく、挨拶代わりとでも言わんばかりに、矢銭(軍費名目の献金)として2万貫(約30億円相当)を供出することと、自己への服属を要求した。最初は一致拒絶した会合衆だが、孤立無援の状況では要求を受け入れるしかなく、堺は信長の直轄地に組み込まれた。

 信長が強硬姿勢を貫いた理由は2つある。1つは堺が、九州の長崎と豊後府内を除けば、日本最大の貿易港を備えていたこと、もう1つは全国一の鉄砲の生産地であったことによる。

 堺と前後して、信長は同じく鉄砲生産地として知られた近江の国友や日野、紀伊の根來も掌握。主だった武器商人をも統制下に置いていたから、信長は鉄砲の確保において圧倒的に有利な立場に立つこととなった。

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