中国共産党で、毛沢東以来の「超一強体制」を築いたと言われる習近平・国家主席。政権を維持するため、これまでも「建国の父・毛沢東」を積極的に利用してきた。その毛沢東は、いかにして中国共産党トップの座についたのか。中国の歴史や文化、社会に精通する社会学者の橋爪大三郎氏と、元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が、天才的な陰謀家・毛沢東の初期の「権力闘争」について考察する(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【第4回。文中一部敬称略】
橋爪:中国共産党のなかでも出遅れた存在だった毛沢東がいかにして中国共産党のなかで頭角を現わし、指導者の座につくことができたのか。彼の履歴から考えてみます。
毛沢東ら中国共産党は当初、コミンテルン(共産主義インターナショナル。ロシア革命直後に誕生した)の指示に従い、北京や上海などの都市部で武装蜂起を繰り返していましたが、ことごとく失敗しました。活動基盤を失い、都市部の青年層に見切りをつけた毛沢東は南部の井岡山という山奥にある農村に移った。そこで農民軍を率いていた朱徳や賀竜ら共産主義者の軍人と合流しています。
彼らは井岡山(せいこうざん)を手始めに根拠地を各地につくり、共産主義革命を実践した。ところが敵対する国民党の攻撃が激しくなるにつれて根拠地を維持できなくなり、1934年、共産党軍は江西省瑞金に設立していた「中華ソビエト共和国」を捨てて逃げ出した。国民党軍と戦いながら1万2500キロを西へ北へと徒歩で移動したことで「長征」「西遷」という呼称がついていますが、ただの逃避行ですよ。
峯村:長征の過程で約8万6000人いたとされる共産党軍はどんどん減り続け、国民党軍との戦いにボロ負けして、1936年に陝西省に着いた主力部隊は8000人まで減っていたとされています。まさに「苦難の大行軍」でした。
橋爪:その逃避行の途中、遵義(貴州省)での会議で、毛沢東は中国共産党の主導権を握ります。自分より党歴の長い周恩来を追い越し、最高指導者の地位を手にしたことになっている。実際にそこまでの地位を固めたかは、微妙な点もあります。
とにかく、行き先も不明な逃避行を、いくつかのグループに分かれて落ち延びながら、毛沢東の一行が延安(陝西省)にどうにか残っていた革命根拠地にたどり着いたことが、その後の中国の運命を方向づけたのです。
まず地理的に見て、延安はソ連から近くて、援助を受けやすかった。それに、山の中で戦略的価値がまるでない場所なので、日本軍や国民党軍の攻撃を受けにくい。