東京の都心部をぐるりと一周するJR山手線。「山手」という名前の駅も無いのに、なぜ山手線と呼ばれるのだろうか。正式名称は「やまのてせん」なのか、「やまてせん」なのか……。山手線の由来や歴史について、鉄道ジャーナリストの梅原淳さんが解説する。
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「山手線」という名前の由来について、生粋の江戸っ子なら、「東京の山の手の辺りを走っている電車」と答えるかもしれない。確かに、山手線の由来は「山の手」を通っているからなのだが、山の手とは正しくはどこを指すのか、きちんと知る人は江戸っ子でも少ないのではないだろうか。
東京の山の手とは、やや高台の住宅地を指す。だが、実際には山手線沿線には、高台以外の場所も多く、住宅地でない場合も少なくない。具体的には、環状線状に弧を描く沿線のうち、東側のエリアだ。時計回りに見た時、いわゆる「下町」と呼ばれる日暮里~神田あたりや、東京~品川までの繁華街やオフィス街を指す。反対に、沿線の西側、品川駅から渋谷、新宿、池袋を経て田端駅までは高台となっており、これらのエリアが「山の手」である。
実は山手線とは、西側の品川~田端までの20.6kmが正式な区間であり、田端~品川までの東側は山手線には含まれない。山手線と同じくJR東日本の路線であることには変わりないが、田端~東京の区間は東北線、東京~品川の区間は東海道線である。東側を含めた一周すべてを山手線と思っている人がほとんどだが、実際は3つの路線をつなげたものなのだ。渋谷や新宿など正式な山手線の駅は、今でこそ繁華街が広がっているエリアだが、明治時代に開通した頃は大多数が住宅地だった。
では、なぜ3つの路線がつながって、現在のような環状線状になったのか。山手線は、今から135年前の1885(明治18)年に、まずは品川~池袋の区間が開業、その18年後の1903年に池袋~田端間が開業し全線開通となった。この頃の山手線の列車に乗ると、現在のように東北線や東海道線へは乗り入れず、品川~田端の区間などを行ったり来たりするだけだった。
やがて東京の街が発展し、多くの人が鉄道で移動するようになると、利便性向上のため山手線の電車に都心を一周させる計画が立てられた。国は、東側の田端~品川間のうち、その頃まだ無かった上野~新橋間に線路を建設。今から95年前の1925年の完成と同時に山手線の電車が東北線、東海道線に乗り入れるようになり、今のような形になった。