訪れた“人生の転機”で、どう行動するかによって人生は大きく変わる──。新たな一歩を踏み出して「人生を変えた」ひとり、シンガーソングライターの庄野真代(66才)にこれまでの人生の歩みを振り返ってもらった。
1978年に『飛んでイスタンブール』が大ヒットし、一躍その名が知られることとなった庄野真代。
高校時代から作詞作曲を始め、22才でアルバムデビュー。昔から音楽一筋だったのだろうと思ってたずねると、意外な答えが返ってきた。
「全然。本当は大学で法律の勉強をしたかったんですが、第一希望の大学に落ちたの。浪人するつもりで大阪から東京に来たら、歌の比重が大きくなりまして(笑い)。『大学はいつでも行けるから、いまは歌をやってみよう』と、そのときの優先順位で決めただけ。歌手でやっていく明確な目標はなかったですね」(庄野・以下同)
ヤマハボーカルタレントオーディションに受かり、歌手としてのレッスンを始めるも、デビューの話は来ず。
「20才でやめようと決意し、私が歌をやっていた証を残すため、最後に『全国フォーク音楽祭』に応募したところ、予選でグランプリを獲得。歌い納めのつもりで行った本戦でスカウトされたんです」
デビュー作は、高校時代から書きためてきた曲を集めたアルバムだった。
「このときもまだ、記念になるアルバムができたらいいなというくらいの感覚でしたが、これを売るためにたくさんの人がかかわっていることを知り、いま持っている力の200%で取り組まないと申し訳ないと、責任の重大さを実感したのです」
そして、24才で『飛んでイスタンブール』と出合い、その後の活躍は周知の通りだ。
タイで出会ったバスの運転手の言葉
仕事が絶好調だった1980年、25才の彼女は2年間休業して世界一周の旅に出る。
「帰ってきたときに、いまのポジションはないかもしれないという覚悟はありました。でも、歌は何才になってもできるけれど、25才の旅はいましかできないから、旅を選ぶ方が私にとって意味がある、と思ったんです。
そのかわり、旅立つ前の1年間は全国ツアーを回り、自分の作詞作曲のアルバムを作るなど、悔いのないように全力で取り組みました」