大手自動車メーカー・ホンダの創業者である本田宗一郎氏は、経営の第一線を退いてからゴルフに魅せられ、ハワイでのゴルフ場(パールCC)経営、トーナメント開催などに尽力した。晩年の本田氏と頻繁にラウンドしていたのが、1980年代の男子ツアーブームを牽引し、現在は日本プロゴルフ協会会長を務める倉本昌弘氏だ。倉本氏が語る。
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最初にお会いしたのは、本田さんが70代半ばの頃だったと思います。ゴルフは60歳から始めて、本格的に取り組むようになったのは65歳からと聞きましたが、初めてお目にかかった時も、まだまだ非常にお元気だなという印象でした。
もちろんご高齢だったので、スコアを気にする競技志向ではなく、とにかくゴルフを楽しんでいらっしゃいましたね。僕がハワイでトレーニングをしていると、秘書の方から「本田がハワイでゴルフやらないかと申しております」と事務所に連絡があって、パールCCでご一緒することが多かった。本田さんの出身地である静岡県に「レイク浜松CC」をつくる時は“手伝ってほしい”と声を掛けられて、コースの監修をさせていただいたこともあります。
とにかく純粋にゴルフが好きで、「ボールを追いかけるでもなければ、こんなに歩くことはないよね」といつもニコニコしながら話されていました。
〈財界では“本田宗一郎のゴルフは早打ち”というのがよく知られた話で、「コンペでは前の組がいない第1組にしないと機嫌を損ねる」といった、いかにも“自由奔放なものづくりの天才”らしいエピソードが語り継がれているが、倉本氏は少し首を傾げる〉
たしかにプレーは早かったですし、コンペでご一緒したことはないので“必ず第1組”の話が本当かは分かりませんが、前が詰まっていて嫌がるという姿は記憶にありません。
経営者としてあれだけの実績を残した方ですから、多少のわがままは許される立場であるにもかかわらず、ゴルフで他人に迷惑をかけるようなことは一切ありませんでした。もちろん、周りの方は気を遣ってコンペの組分けを考えたりしたのかもしれません。ただ、一緒にプレーをしていて前が“渋滞”することはよくありましたが、怒るどころか待ちながら談笑していましたからね。
晩年の本田さんは、コースには一緒に出るものの、カートに乗ったままでボールを打たなかったこともありましたね。ハワイの風が感じられるフェアウェーに出るだけで、気分が良くなったのではないでしょうか。
※週刊ポスト2021年11月5日号