元禄期以降の商人が「社会システム」を変えた
市場経済に依存する部分が極端に少なかったわけだが、全国的に新田開発が限界に達するとともに状況が変わる。コメの収穫量を増やせない以上は、他の商品作物か農業以外の分野で稼ぐしかなくなった。
従来の博多や堺の商人たちでは変化に対応できず、新しいタイプの商人が必要とされた。この点に関して、前掲『江戸時代』は次のように記す。
〈この初期特権商人の没落と歩調をあわせて登場し、元禄〜享保期に完全にそれと入れ替わる一群の商人たちがいた。農民の手元の剰余物を中心に、生活水準を向上させつつあった庶民たちの生活物資の流通を扱う新しい形の商人たち〉
新しい形の商人の登場は、「彗星のごとく」という表現がぴったりであったとして、前掲『江戸時代』はさらにこう続ける。
〈彼らは元禄期には初期特権商人たちにとってかわり、一大社会勢力として当時の政治・経済にも大きな影響をおよぼすようになっていった〉
これら新興商人の代表例として挙げられているのが、現在の三井グループの祖とされる三井越後屋呉服店を開業した三井高利(1622〜1694)だった。
吉田伸之著『成熟する江戸 日本の歴史17』(講談社学術文庫)によれば、三井高利に代表される新興商人は、〈その規模にかかわらず、直接に幕藩体制を脅かすものとはならなかったが、土地を媒介とする領主と百姓の人格的で固定的な支配関係を根本として成り立っていた既存の社会システムを、貨幣や商品を媒介とする、対等・平等な人と人との契約関係に置き換え、こうした新たなシステムを社会の隅々まで普及させていった〉。
幕府としても諸大名としても、気象条件に左右されやすいコメへの依存度を大幅に減らし、運上金や冥加金の名目で商人から営業許可税を徴収したほうが時間も手間も節約できる。それでも足りないときは御用金の名目で、豊かな農民や商人に臨時の上納を促した。本来は利息をつけて返す借り上げ金だったが、時期が下ると、強制的な献金となった。