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【史実で解読する『どうする家康』】豊臣秀吉「晩年の暴走」でも尽きなかった財力の秘密 重要都市や金山銀山の「直轄地」化が鍵に

 話を経済政策に絞れば、秀吉が実施した太閤検地と刀狩りよりは海賊停止令や重要都市における地子(領主が賦課した地代)の廃止が重要となる。

 流通を重視した点は信長といっしょでも、水運の支配が琵琶湖に限られた信長に対し、秀吉は海上交通をも対象とした。海賊に襲われる心配がなくなれば、流通も自ずと盛んになり、献金も増えるとの算段である。

江戸幕府に引き継がれた秀吉の改革

 また秀吉は、大坂・京都・伏見・堺・長崎などの重要都市や佐渡の相川・石見の大森・但馬の生田などの金山銀山を直轄地として、そこから生まれる富は年間で200万石に及んだ。重要都市における地子の廃止は、古くからの領主の権利を否定するためのもので、そこを直轄領にする地ならしだったのである。

 長崎を直轄地としたのは海外貿易を独占するため、京都を直轄地したのは天皇と朝廷の庇護者であることをアピールすると同時に、富を生み出す空間としての価値を見出したからで、秀吉はそのために応仁・文明の乱(1467〜1477)以来の戦乱で荒れ果てたままの京都を復興させた。忠実な復元ではなく、身分による住み分けがなされたが、それは豊臣政権下に整備された城下町でもいっしょだった。

 天下統一が秒読み段階に入った頃から、豊臣政権では文官の存在感が高まったが、広大な直轄地を抱え、莫大な富を管理する以上、それは必然の流れだった。石田三成をはじめ、五奉行と称された人びとが代表格で、もっぱら武功で出世を遂げた武将たちが面白からず思うのもまた当然のこと。自分の死後も有効なシステムを築けなかったのは秀吉最大のミスと言えた。

 秀吉時代から徳川の世に受け継がれたものは少なくない。平安時代以来の領主権が否定されたのは農村もいっしょで、これには兵農分離と身分固定化も伴った。刀狩りにより一揆の危険性は大幅に削られ、太閤検地により所領の価値が数値化されたことで、大名の国替えも容易となった。金・銀・銅銭の三貨に加え、コメが貨幣代わりとして認められるなど、秀吉のもたらした影響は徳川の世を通じて消え去ることはなかった。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近刊に『featuring満州アヘンスクワッド 昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』(共著)、『イッキにわかる!国際情勢 もし世界が193人の学校だったら』などがある。

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