紫式部の幼少期をそう表現するのは、歴史民俗学者の繁田信一さんだ。
「紫式部のお父さんは貴族の中では中間層。現代なら都道府県知事に相当するステータスで、そこそこの地位もあり、お金持ちで裕福でした。母が早逝し学者の父に男手ひとつで育てられたゆえに学問に触れる機会もほかの子供よりも多かったようで、教養のあるクレバーなお嬢さまに育ったとされています」(繁田さん・以下同)
名家の娘として恵まれた生活を送る紫式部だったが、のちに災難に見舞われる。天皇の代替わりによって父の為時が職を失い、以前ほど豊かな生活が送れなくなったのだ。
「紫式部が作家として活躍する時期は一条天皇の時代にあたりますが、為時はその前に即位していた花山天皇派だった。だから代替わりとともに前の政権の人間である為時は“干されて”しまい、数年間無職になってしまった。
もちろん一気に貧乏になったわけではありませんが、豊かでなくなったことは事実です。とりわけ当時は男女が結婚すると夫が妻の家に入り、妻の父が生活費を工面する習わしだったため、家計が裕福でなくなった紫式部はなかなか結婚相手が見つからない。
結局、20代後半になって為時の知人である藤原宣孝と結婚しましたが、当時としては晩婚で、40代の宣孝には数人の妻と子女がいました」
没落した名家の娘で行き遅れ、やっと結ばれた夫は年上の妻子持ち──そんな半生で紫式部は内面を“こじらせた”のではないかと繁田さんは推測する。
「幼い頃から物語を読みふけっていた夢見る少女だったのに婚期が遅れた上、結婚相手は父と年齢の変わらないおじさんで嫁付き、子供付きだったわけです。
もちろん一夫多妻制だった当時としてはありふれた結婚の形態でしたが、当人とすれば自分が浮気相手のようなもので、“こんなはずじゃなかった”と拗ねていた時期があってもおかしくありません。実際に彼女が記した『紫式部日記』をひもとくと、清少納言をはじめとした世間でチヤホヤされる女性への妬みや悪口のオンパレード。しかもそれをストレートに書くのではなく『私、馬鹿なふりをしていただけなんですよ』など婉曲的な言い方もしている。
現代でいうところの、“陰キャ”や“こじらせ系”の側面も持ち合わせた女性だったのではないでしょうか」
古典エッセイストの大塚ひかりさんも紫式部には「陰」があると指摘する。
「『紫式部日記』には、彼女がいろいろな情景を憂鬱そうに自分と重ねる場面が多いんです。例えば、水鳥が泳ぐ姿には『楽しそうに見えても、その身になってみると苦しいに違いない。自分も同じだ』と書きます。『源氏物語』も2部以降に光源氏の運命が暗転するところが最も筆が走っている。恐らく道長のバックアップで書いていたのは若き日の光源氏が女君たちと浮名を流して成功するところまで。それ以降は自分のために書いていたのではないか。
また、醜い女性や嫉妬深い女性を描くシーンでは“これでもか”というほど表現が詳しい。彼女の中には鬱屈したネガティブな思考があって生きづらさを抱えていたと思います」(大塚さん・以下同)
しかし、紫式部は決して自分の殻に閉じこもることはなかった。
「彼女は“たとえ他人は自分を人間扱いしないとしても、自分で自分を見捨ててはならない”という意味の歌を詠んでいる。ネガティブ思考をエネルギーに変えていく底力があるんです」