1989年、バブル期に記録した日経平均株価の最高値更新が目前に迫る昨今。日本が「政治とカネ」で揺れていた点も、バブル期と今はリンクする。1988年に戦後最大の経済事件「リクルート事件」は起こった。リクルート創業者・江副浩正氏の逮捕は衝撃を与えたが、彼はバブルの“徒花”に過ぎなかったのか。ジャーナリスト・大西康之氏が検証する(文中敬称略)。
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1988年7月6日、日本経済新聞社長の森田康が辞任した。リクルートの子会社、リクルートコスモスの未公開株を買っていたことが発覚したからだ。
日経の記者はインサイダー取引の疑いがかかるため、内規で株の売買を禁じられている。この年に入社した筆者も新人研修で「株の売買はダメだ」と繰り返し教えられた。
「俺たちには禁じておいて、自分は大儲けかよ」
時はバブルの真っ盛り。周囲が大儲けするのを見ているしかなかった記者たちは「社長の裏切り」に激怒した。筆者も取材先で嫌味を言われた。
切れ者と言われた森田が、なぜこんな初歩的なミスを犯したのか。東大の後輩で、社交ダンス仲間でもあったリクルートの創業者・江副浩正に頼まれ、先輩風を吹かせてしまったのだろうか。
森田の辞任後、首相の竹下登をはじめ、与野党で90人を超える政治家が未公開株を受け取っていたことが明らかになり、「リクルート汚染」という言葉まで生まれた。
この事件で失われたのは政治への信頼だけではなかった。学生起業家の江副が有罪になったことで、学生たちは寄らば大樹の陰とばかりに、大企業志向を強めた。経済界は「ものづくり」から「情報産業」へ飛び移るきっかけを失なった。
日経も森田の辞任で「デジタル化」が30年遅れた。森田は昔ながらの「新聞人」ではなく、アントレプレナー(起業家)気質の強い経営者だった。3か月前、入社式で森田は我々にこう訓示した。
「君たちは『ウォール・ストリート』を見たか。あの映画でマイケル・ダグラスは3回も『NIKKEI』と言う。日経は経済を中心とした総合情報機関であり、それを世界の『NIKKEI』にするのが君たちの仕事だ」
短い訓示だが、森田は一度も「新聞」という言葉を使わなかった。新聞社に入社したつもりの筆者は強い違和感を覚えた。森田はコンピューターを使ったデータ事業を構想した円城寺次郎社長の右腕として、データバンク事業の立ち上げに取り組んでいた。「新聞の人」ではなかったのだ。