人に優しくなるためには「美学」を持つことが大切
最近では流行らなくなった言葉に「美学」というものがあります。美学とは、「何を美しいと思うか?」とか、「どんなことを素晴らしいと思うか?」というこだわりや価値観を指します。
自分の美学を持てば、それが「判断軸」や「理想像」となって、日常の言動の基準が生まれます。別の見方をすれば、美学を持つとは、「どんなことをカッコ悪いと感じているか?」ということです。
私がつねに意識しているのは、人に威張らず、偉そうな態度を取らないことです。医者や大学教授をしていると、偉そうに人を見下すような態度を取る同業者を見かけますが、そんな人間にだけはなりたくないと思っています。
尊大な態度の人を目撃すると、「コイツは頭が悪いな」とか、「カッコ悪いヤツだな」と思ってしまうのです。
自分には美学がないと思うならば、次のような行動を意識すると、それが美学になり、行動の基準になります。
【1】約束を守る
【2】言い訳をしない
【3】人の悪口は言わない
【4】お礼や感謝は必ず伝える
【5】嫌いな人にも挨拶する
【6】金の貸し借りはしない
自分の美学を持てば、それに沿って行動している限りは、自分の軽率な振る舞いに気づいて、後で気分が落ち込んだり、自己嫌悪に陥ることもなくなります。
こうした気持ちを手に入れると、自然と利他的な考えができるようになり、人にも優しくできるのです。
道徳の「道」はあるが「徳」がない
日本人が美学を意識しなくなった背景には、道徳とか道徳教育の在り方が右往左往してきたことも大きく関係しているように思います。
道徳には、「道」と「徳」という二つのパートがあります。
「道」とは、「親孝行をしなさい」とか、「弱い者は助けなさい」、「順番を守りなさい」など、人が守らなければならないルールを指します。
「徳」というのは、そうしたルールを守ることができる状態を指し、どちらかというと、「こうありたい」とか、「こうなりたい」といった人間のあるべき姿を示しています。
天変地異が起こっても略奪行為はしないとか、電車やエレベーターに乗るときは整列して待つなど、日本人は世界に類がないほど「道」を守っていると思いますが、「徳」については圧倒的に勉強が足りていないと感じています。
日本ほど、大金持ちが寄付をしない国は他になく、政治家が平気でウソをつく国も珍しいと思います。「この人のようになりたい」と思えるような政治家や経営者がいないことも、徳のなさの現れといえるのではないでしょうか。
これまでの道徳教育というのは、「道」ばかりに重点を置いてきましたが、これからは自分で意識して「徳」を学んでいく姿勢が大事だと思います。自分の在り方を考えることは、美学を持つことにもつながり、優しい人に一歩近づけることになります。
人と助け合うことで、いい結果が出やすくなる
出世競争をしているビジネスマンや、大学や高校の受験生には、「ライバルに親切にしたり、優しくしたら自分が負ける」と考えている人がたくさんいますが、たとえ競争関係にある相手でも、人には優しくした方が、目標を達成しやすくなります。
日本人には、「敵に塩を送る」(ライバルの弱みにつけ込まず、その苦境から救おうとする行為)を極端に気嫌いする人がいますが、どんな場合であっても、人に優しくした方が、いい結果が出るものです。
私がそれを学んだのは、大学受験を目前に控えた高校3年のときです。私は兵庫・神戸市にある灘高に通っていたのですが、当時の灘高は東大合格者数で全国トップを走っており、世間から、「灘高生は性格が悪い」などと言われていたような時代です。
性格が悪いかどうかはわかりませんが、同級生の多くは同じ東大を目指すライバルですから、お互いが競争心を持っていたことは間違いありません。
高校の1~2年生の頃は、いじめもケンカも多くありましたが、受験まで1年を切った高校3年生になると、不思議なほど、みんなが仲良くなったのです。
普通であれば、お互いの競争が激化する時期ですが、東大合格者数のトップをみんなで守ろうというムードが一気に高まって、全員で協力して受験に臨むような雰囲気ができあがりました。
いい参考書が見つかったら、みんなで教え合うとか、できないヤツがいたら、できるヤツが教えてあげるなど、団体競技のような雰囲気に包まれながら、受験勉強に取り組むことができたのです。
お互いに助け合った方がパフォーマンスが上がり、足の引っ張り合いはパフォーマンスを下げることになります。
ギスギスした受験競争を一人で勝ち抜いてきた人ほど、人に冷たくする傾向があるようですが、助け合った方がうまくいくことを経験として知っている人は、自然と人に優しくなれます。
私にとっては、受験勉強以上に学びになった貴重な経験だと思っています。