このあたりの事情について、『光る君へ』ではこう描写していた。定子の女房であった清少納言の随筆『枕草子』が内裏で評判を呼び、一条天皇もそれを読むたび定子のことを思い出し、他の女性に関心を抱くことはなかった。が、この状況は(彰子に皇子を産んでほしい)道長にとって好ましくなく、窮余の策として、まひろに物語の執筆と藤壺への出仕を依頼した──。
一条天皇がその物語に興味を引かれれば、藤壺に渡る回数が増えるという算段である。先述した『光る君へ』第33回では、物語の続きができたとの話を聞いた一条天皇が藤壺に渡る場面があったが、彰子に会うのが目的ではなかった。出迎える藤壺の女房たちの陰口として「帝が藤式部(まひろ)に会いにいらっしゃるの?」「中宮様にはご興味ないもの」とのやりとりが添えられていた。
これまたどれだけ史実を反映しているか不明なところだが、一条天皇がある時点から彰子を寵愛し始めたのは事実で、寛弘5年(1008年)には敦成親王が誕生する。のちの後一条天皇である。
道長は「彰子のために定子をしのぐ唐物を用意」した
史料上に明記されているわけではないが、古代史と海域アジア史を専門とする山内晋次(神戸女子大学教授)は著書『さかのぼり日本史外交篇〔9〕平安・奈良 外交から貿易への大転換』(NHK出版)のなかで、藤原道長は〈後手を克服するために、唐物(からもの)を効果的に利用〉〈彰子のために定子をしのぐ唐物を用意し、一条天皇の関心をひきつけようとした〉と推測している。
ここで言う「唐物」とは中国(唐・宋)から輸入した物品の総称。「定子をしのぐ」というのは、清少納言の『枕草子』の記述から、定子が漢詩文に関して造詣深く、定子の住まいが中国産高級絹織物の錦、東南アジア産の高級なお香など、第一級の唐物に満ちていたことを念頭に置いての言い方である。
漢詩文に造詣の深かったのは一条天皇もいっしょで、同天皇が定子を寵愛した背景として、趣味の一致を軽視することはできず、山内は〈中国の文学にまで及ぶ教養や身のまわりのさまざまな高級な唐物は、まさに一条天皇の寵愛を一身にうける定子のステイタスを象徴するものだった〉とまで言及している。
少し古い歴史教科書では、道長の時代を国風文化の名で表現していたが、近年の研究によれば、国風文化は10世紀から11世紀に展開した文化の特定の一面を強調したにすぎず、道長の時代にはいまだ唐物が威信財(権力を象徴する財物)として珍重されていた。
この点に関しては、古代政治史を専門とする倉本一宏(国際日本文化研究センター名誉教授)も著書『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書)のなかで、〈古記録や文学作品を少しでも眺めれば、平安貴族が唐物と呼ばれる中国舶来品に囲まれて生活していたということは、容易に察せられる〉と指摘。
山内前掲書でも、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』など同時代の日記を根拠に、〈唐物を《威信財》ととらえて政治的に利用することは、道長の専売特許ではなく、当時の貴族や官人たちの世界ではごく一般的な行為であった〉〈当時の日本には、現在のわれわれが想像する以上に多くの唐物が流通し、それらの品々は社会のなかでさまざまな役割を演じていた〉としている。