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島崎晋「投資の日本史」

大河ドラマでは描かれない藤原道長“貴族の頂点”に至る道 一条天皇の心を長女・彰子に振り向かせた「唐物攻勢」【投資の日本史】

「唐物」は宋から九州・大宰府を経て京に運ばれた

 唐物を利用する大前提として、まずは唐物を大量に確保しなければならない。入手のルートはいくつかあったが、当時の日本において唐物の受け入れ窓口は九州北部の大宰府(現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあった軍事・外交を司る地方行政機関)に限られた。

 10〜11世紀の日中間には公式使節の往来はなく、海外貿易は中国(宋)側の私商船頼みだった。古代史と唐代史を専門とする大津透(東京大学教授)の著書『道長と宮廷社会 日本の歴史06』(講談社学術文庫)は、唐物貿易について以下のように説明する。

 宋の商船が九州沿岸部に来着すると、大宰府は乗組員の名簿や積み荷の目録など必要書類を整えて朝廷に報告する。宋商の滞在と貿易を許可するか、それとも追い返すかの判断を求めるためである。

 朝廷で公卿が集まり、重要案件に関して意見を議定することを陣定(じんのさだめ)と言い、日宋貿易に関するそれは宋人定(そうじんさだめ)と呼ばれた。

 延喜11年(911年)に定められた年期制によれば、宋商の来航は2〜3年以上(10年とする説も)の間隔をあけ、それ以下の間隔であれば追い返すのが原則だった。ところが実際は、貴族社会における唐物需要の高まりを背景に、天皇の代替わり・火災による焼失・天皇を慕う気持ちを汲んで……など、さまざまな理由のもと、認可が下されることが多かった。

 認可が下れば、蔵人所(くろうどどころ)という役所の役人が唐物使(からものつかい)の名のもと大宰府に派遣され、目録をもとにリストアップしていた物品を購入。それに漏れた物品は民間の商取引に委ねられた。

 唐物使が購入品ともども帰京すると、天皇みずから唐物を見る唐物御覧という儀式が行われ、それが終わると、すべての唐物が皇族や上級貴族たちに分け与えられた。

 以上が唐物貿易の大枠で、藤原道長の日記『御堂関白記』にも、寛弘3年(1006年)10月9日と三条天皇の長和元年(1012年)5月20日の唐物御覧に道長も立ち会ったとの記述が見える。後者には献上主が大宰大弍(大宰府の事実上の長官)とあり、蔵人所の職権が大宰府に移行していたことが見て取れる。

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