島崎晋「投資の日本史」

大河ドラマでは描かれない藤原道長“貴族の頂点”に至る道 一条天皇の心を長女・彰子に振り向かせた「唐物攻勢」【投資の日本史】

漢詩の教養は平安貴族にとって重要で、なかでも白居易の『白氏文集』は大いにもてはやされた。写真は公卿で能書家の藤原行成が『白氏文集』のうち七言絶句・律詩を書き写したもの(東京国立博物館蔵「白氏詩巻」 出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

漢詩の教養は平安貴族にとって重要で、なかでも白居易の『白氏文集』は大いにもてはやされた。写真は公卿で能書家の藤原行成が『白氏文集』のうち七言絶句・律詩を書き写したもの(東京国立博物館蔵「白氏詩巻」 出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

権力者・道長の日記が示す「唐物集め」の実態

 これ以外にも、『御堂関白記』には面白い記述がいくつかある。寛弘3年10月20日条の「唐人曾令文がもたらした蘇木(染料の一種)と茶碗を持って来た。『五臣注文選』と『白氏文集』も持って来た」との記述や、寛弘7年(1010年)10月20日条の「唐人の許から種々の物を贈ってきた」との記述がそれだ。

『五臣注文選』は6世紀に編纂された詩文集『文選』の注釈書、『白氏文集』は白居易(白楽天)の詩文集。どちらも当時の平安貴族なら誰しも、写本ではなく、美術工芸品としての価値もある摺本(すりほん、木版印刷で製作された書物)を喉から手が出るほど欲しがったもので、道長が宋商の曾令文からもらい受けたのもおそらく摺本だろう。

 本来なら唐物使に買い占められているはずの摺本が宋商の手元に残っていた事実からは、大宰府に提出した目録に偽りがあったか、目録の送付役を務めた大宰府が中身を書き換えたか、何らかの不正の存在がうかがわれる。

 山内前掲書も同様の考えからか、藤原道長は〈唐物を所有する他の貴族や貿易を管理する大宰府の役人、さらには宋海商など、権力者として利用しうるさまざまなコネクションを使って、唐物を集めていった〉と推測している。

 その推測が当たっていれば、一族の権勢確立を願う道長は唐物の収拾に投資を惜しまなかったはずで、手に入れた唐物のうち、あるものは一条天皇に献上、あるものは藤壺を飾るのに利用。これら一連の行為も投資の範疇に入れてよいだろう。

 その甲斐あってか、一条天皇は彰子のもとへ足しげく渡り始めた。帝の寵愛を一身に受けた彰子は、前述したように寛弘5年(1008年)9月11日に敦成親王、翌年11月25日に敦良親王を出産。敦成親王は異母兄の敦康親王を押しのけて東宮(皇太子)に立てられ、長保5年(1016年)2月には後一条天皇として即位。後一条には皇子がいなかったことから、天皇の位は弟の敦良親王(後朱雀天皇)へと受け継がれた。

 これに伴い、天皇の外祖父となった道長の権勢は揺ぎなきものと化し、嫡男・頼通への世代交代も問題なく行なわれた。以降、道長に匹敵する傑物が現われることはなかったが、道長の築いた礎があまりに強固であったことから、摂政・関白など“貴族の頂点”と呼べる官職は、幕末まで道長の子孫に独占され続けたのだった。

(シリーズ続く)

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

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