道長の顕著な造寺造仏は寛弘2年(1005年)10月19日の「浄妙寺三昧堂の落慶供養」を嚆矢とし、同3年12月26日の「法性寺五大堂の落慶供養」、同4年8月の「金峯山詣」がこれに次ぐ。
浄妙寺は、藤原忠平(3代前の祖)が宇治郡木幡(現在の京都府宇治市木幡)を四神相応の地(風水で最適の地)であるとして一門の埋骨地としたのが始まり。しかし天徳2年(958年)に焼亡してからは荒廃するに任されていた。それを悲しんだ道長が一門の菩提所として三昧堂を建立したのが「三昧堂の落慶供養」だ。
道長自筆の日記『御堂関白記』の十月十九日条によれば、道長が仏前で読み上げた願文には、「現世の栄耀や寿命福禄のためではありません。ただ、この山にいらっしゃる先考(父の兼家)や先妣(母の時姫)、および昭宣公(4代前の基経)を始め奉って、諸々の亡き先祖の霊の無上の菩提のためであります。そして今から後は、未来にわたり、一門の人々を極楽に引導しようというのであります」とあった(倉木一宏訳『御堂関白記』講談社学術文庫より)。
これはおそらく道長の本心だろう。大津透は前掲書の中で、〈おそらくこのころ、従来の霊魂的な死のイメージが変わり、死という現実が直視されるようになり、葬所や葬送儀礼よりも墓所が重視されるようになったのだろう〉と推測している。
それに加え、日本を含めた東アジア古来の祖霊信仰の影響も考えられる。祖霊の加護を確実に受けるには、祖霊が極楽浄土で何不自由なく暮らしていることが絶対条件。菩提所で定期的に営む法要は、御仏が祖霊の加護を後押ししてくれるとの安心感をもたらすだけでなく、一門の結束を強化させる機能をも果たしたのではないだろうか。
天皇に嫁がせた長女・彰子の懐妊祈願のため神仏を総動員
次の法性寺は、鴨川東岸の九条河原に藤原北家冬嗣流(冬嗣は道長から11代前の祖)の墓所として創建されたが、天徳二年(958年)3月に焼亡。道長はそこに不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大明王の像をそれぞれ安置する5つのお堂を建立した。
この五大明王を本尊として修する真言密教の「五壇法」は、御敵調伏や懐妊・安産に効験ありとされていたから、時期的に見て、長女の彰子が一条天皇の胤を宿し、無事に健やかな皇子を出産するよう祈願したものと考えられる。
なぜなら、道長の権勢の源は「天皇の外戚」としての立場。天皇に入内させた娘が皇子を出産し、その皇子が健やかに成長することが必要不可欠である。そのため、娘の入内から中宮への昇格、天皇のお渡りを促す工作などにかかる経費すべてが必須のコスト、すなわち投資と言うことができよう。
この点に関し、道長は「2つのリスクマネジメント」に取り組んだ。彰子の生活の場である藤壺(後宮にある建物「飛香舎」の別名)を一条天皇好みの唐物で飾ったのがその1つなら、彰子の懐妊祈願のため神仏を総動員したのもその1つで、法性寺五大堂の建立とそこでの五壇法の修法は後者の一例である。
また彰子のバックアップは一門総がかりで行なう必要があるため、「浄妙寺三昧堂」の建立と、そこで営まれる定期的な法要は、全体の意思統一・意思確認の場および時間として有効に働いたことだろう。