前例無視の「金峯山詣」最大の目的は「彰子の懐妊祈願」か
道長の配下ではないが、道長の政治手腕を高く評価し、道長からはその博学と見識ゆえに一目置かれていた藤原実資という公卿がおり、この実資の日記に、「布衣の一上(トップクラスの公卿)が平安京の外に出る例は、そもそも前例を調べても聞いたことのないことである。事毎に軽率である。いまだに比べるところを知らない」という一文がある(倉木一宏訳『現代語訳 小右記』吉川弘文館より)。名指しこそ避けているが、道長を指しているのは間違いなかった。
平安京の外にまで参詣・参拝に出向く。その中でも最も遠く、最も長期間に及んだのは寛弘4年(1007年)の「金峯山詣」だった。金峯山は大和国吉野のさらに奥にある霊山で、「金の御嶽」とも呼ばれたため、金峯山詣は御嶽詣とも言う。
『御堂関白記』によると、道長が金峯山詣に出立したのは同年8月2日のこと。それまでの75日間、酒食と魚食を断つ精進潔斎を続けたとも伝えられる。
金峯山の中心は標高1719メートルの山上ヶ岳で、『光る君へ』の第35回「中宮の涙」(9月15日ほか放送)でも描かれたように、修験道の聖地でもあるだけに、相当の難所。数日来の雨で足元がさらに悪くなった状況下、道長が絹や布、紙、米など大量の献上品を運ぶ人足を従え、延暦寺や興福寺などの高僧とともに山頂で供養を行なったのは8月11日のことだった。高僧による読経を終えた後、道長は持参した経典を経に納め、蔵王権現が現われたと伝えられる場所に埋納した。
埋納された経典は法華経、仁王経、理趣分、般若心経、弥勒経、阿弥陀経など多岐にわたり、なかには道長自ら書写したものも混ざっていたが、ここで注目すべきは「理趣分(理趣分経)」という経典で、『御堂関白記』には、「主上(一条天皇)・冷泉院・中宮(彰子)・東宮(居貞親王、三条天皇)のため」と記されている。
字面からは見当もつかないが、実のところ、理趣経は性欲の解放を説く経典である。同日の経供養に先立ち、道長が真っ先に参詣した場所が「小守三所(こもりさんしょ)」という懐妊祈願の霊場であったこともあわせ考えると、道長が前例を無視して金峯山詣を実行した最大の目的は彰子の懐妊祈願であった可能性が高い。道長が帰京したのは同月14日のことだった。
日本仏教史上、画期的だった道長の仏教信仰
この時の金峯山詣と埋経は日本仏教史上においても画期的な出来事で、大津透は前掲書の中で、〈今日でも修行以外ではほとんど人間を拒絶する大峯の山上ヶ岳まで登ったということは、ただならぬ信仰心があったことは疑いない。そして道長の埋経は先駆的なものであり、その後の埋経、経塚の流行を導くものである〉と評している。
先駆けと言えば、墓所に寺堂を建立したのも道長の浄妙寺が最初、五大堂の建築様式も道長が建立した法性寺がその後の手本とされるなど、先例重視が普通の平安時代において、道長だけはわが道を行く感が際立っていた。