参詣と言えば、道長による治安3年(1023年)の高野山金剛峰寺参詣も見落としてはならない。金剛峯寺は空海が弘仁7年(816年)に山林修行の道場として開いた地だが、正暦5年(994年)に大火に見舞われてからは衰退が著しかった。
そこへ参詣に訪れたのが道長で、“空海との対面”を果たしたとされる。これをきっかけに「空海はいまなお生きて座禅を続けている」との信仰が生まれ、金剛峯寺は霊場として地位を確立。21世紀の今日に至るまで、その恩恵を受け続けている。また、高野山奥の院への納髪納骨も道長に始まると伝えられる。
この世に極楽を出現させた「法性寺阿弥陀堂」「平等院鳳凰堂」
話は高野山への参詣より前に戻る。仏教を有効利用してきた道長にとって、最後にして最大のクライマックスと呼べるのが、治安2年(1022年)7月14日の「法成寺金堂、阿弥陀堂」の完成供養だった。
建立の地は自身の土御門邸の東隣。阿弥陀堂の内部には金色に輝く9体の阿弥陀像が安置され、各扉には極彩色の『九品来迎図』、すなわち阿弥陀如来によるお迎えの様子が9段階に分かれて描かれた。平安時代後期に著わされた歴史物語の『大鏡』はその有様を「極楽浄土のこの世に現れかると見えたり」、同じく『栄花物語』は「極楽世界、これにつけても、いとどいかにとゆかしく思ひやりたてまつる」と記しており、このような往生図が仏堂内に描かれたのは、法成寺が史上最初という。
道長は計画当初から法成寺を臨終の場と決めており、万寿4年(1027年)12月4日、阿弥陀堂の9体阿弥陀像の前で息を引き取った。法成寺自体はその後の度重なる火災により現存しないが、その造りは嫡男の頼通が天喜元年(1053年)、宇治に建立した平等院に継承された。
頼通は政治家としては不出来な後継者だったが、仏教芸術のパトロンとしては超一流で、宇治の平等院はそれの生きた証と呼んで過言ではない。度重なる戦火により、創建当時の姿をとどめる建築物は、鳳凰堂の俗称で知られる阿弥陀堂のみだが、それだけでも摂関時代の栄華を十分に伝えてくれる。
鳳凰堂中堂の中央に安置されている座高277.2センチメートルの阿弥陀如来坐像は日本独自の寄せ木造りの完成形で、作者は平安時代を代表する仏師の定朝。定朝作品として、現存する唯一確実な像でもある。
阿弥陀如来坐像の背後の壁には極楽浄土図、周囲の壁および扉には、現存するものとしては日本最古の大和絵の『九品来迎図』が描かれ、天井や梁、柱なども美しい装飾で彩られている。ここに入る誰もが極楽に迷い込んだような錯覚に陥るのではあるまいか。日本における信仰と芸術の一体化はここに始まると言ってもよいかもしれない。