1999年10月に自民党と公明党が連立を組んでから今年で25年目を迎える。野党時代の2009~2012年も含めて、その緊密な関係は長年維持されてきた。ただ、その自民党が公明党を激しく攻撃していた時期があったことをどれほどの人が覚えているだろうか。
1993年の非自民の細川連立政権に公明党が参加した際、自民党との関係は一変した。自民党による創価学会、公明党に対する執拗な攻撃を振り返ると、きれいごとだけではない3者関係の多面性が見えてくる。菅義偉内閣の首相補佐官を務めた経歴を持ち、最新刊『権力の核心「自民と創価」交渉秘録』が話題の帝京大学教授の柿崎明二氏の解説と共に、令和の政治構造から考えられない“自公対立”の様子を振り返ってみたい(以下、同書より抜粋・再構成)。
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自民党が、創価学会、公明党を「宗教と政治」の観点から激しく攻撃し始めたのは、1993年衆院選で細川連立政権が生まれ、下野してからだ。攻撃は、公明党の一部も合流した新進党が1997年末に解党する後まで続く。
野党だった自民党は1994年に社会党、新党さきがけと連立政権を樹立し、与党に復帰、逆に公明党は野党に戻っている。それでも自民党は攻撃の手を緩めなかった。公明党が、政権交代可能な二大政党の一翼を担うことを目指して結成された新進党に参加し、1995年参院選では新進党が比例代表で自民党を上回ったことが大きい。自民党は再び政権を奪取されるのではないかという恐怖感に突き動かされたのだ。
結党時から40年近く政権与党として政官業のトライアングルの中心に居続けた自民党にとって、野党になって権力を手放していることは「瀕死」状態に陥ることを意味する。公明党が自分たちをそこまで追い込むつもりなのであれば手加減をしている余裕はないということだ。