島崎晋「投資の日本史」

【藤原道長と荘園】「実入りのよい国の受領」に家来を派遣して手に入れた「地方の権力基盤」 そこには政治力・人事権・財力の循環が欠かせなかった【投資の日本史】

摂関家家司、寄人という「徴税の障害」が武士の誕生につながる

 話を受領に戻そう。受領による課税・徴税対象は国有地である公領だけでなく、私領の集合体である「荘園」も含まれ、官物(地税と人頭税)の納税義務を免れなかった。ただし、受領には個々の荘園の課税額を決める権限も委譲されており、権門からの圧力、あるいは権門への忖度から、受領は荘園に対して税の減免措置を取ることが少なくなかった。

 これとは別に「寄人(よりうど)」の存在も受領にとって悩みの種だった。寄人は荘園に居住しながら、荘園領主でなく権門に仕える農民で、伊藤前掲書は、〈寄人の仕事には見返りがあった。権門は国家を担う一翼だから、その活動は公務に準じるものとみなされ、そこに仕える寄人は税の減免を要求できた〉としている。

 荘園からの徴税をめぐっては、公=国司と私=権門のいわば二重権力が存在しており、〈権門も寄人を増やすために国司に圧力をかけたり、国司のほうから権門に忖度して寄人の要求を認めることもあった〉という。摂津・和泉・近江三国の農民からなる大番舎人という摂関家の寄人が交代で上京し、宿直など摂関家の雑務を務める見返りとして(公的な税負担である)臨時雑役を免除された例や、柑橘類を納める摂津国橘御園の寄人が摂関家の私的な行事に奉仕する見返りとして、臨時雑役を免除されていた例を挙げている。

 朝廷もこのような事態を想定していなかったわけではなく、受領への集権化を図ったとき、様々な予防措置を講じていたが、その効力は長続きせず、道長時代には早くも、摂関家家司と同じく寄人の増加が国司による徴税の大きな障害となりつつあった。

 時代は下り、院政期には新規に土地を開拓した開発領主がこぞって、上皇・法皇や大寺社、摂関家に代表される上級貴族などに荘園を寄進。彼ら権門が本家(最上位の土地所有者)として顔を並べていては、どんなに肝の座った受領たちでも合法的な権限の行使を躊躇わざるをえなかった。

 開発領主に対して腰が引ける受領たち。このような動向が地方豪族の成長および武士の誕生へとつながるのだった。

 荘園と道長について総括するなら、道長は必要なときには例外なく、息のかかった受領から献金や労働奉仕を得ることができた。そのためには政治力、人事権、財力の3点は密接不可分で、この3点を上手く循環させることができたからこそ、摂関家全盛の世を招来することができたと言うこともできる。大津前掲書は、「摂関期の宮廷社会を支えたのは、受領国司による任国支配」としているが、経済面に限ればまさしくその通りだった。

(シリーズ続く)

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

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