平安時代も終わりに近い11世紀末から12世紀にかけての100年間は、それまでの摂関政治に変わり、上皇による院政や武家政権が始まった時代として知られる。1167年、武士として初めて太政大臣に登り詰めた平清盛(1118−1181年)は、天皇の外祖父としても権勢を振るった。しかし、その祖父や父の代、平氏一門は院政下で使われる立場に過ぎなかったという。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第6回は、平清盛が自らの権力基盤とした「瀬戸内海」への投資の中身と、そのリターンについて解説する。(第6回)
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平清盛ゆかりの地、それも京都以外から選ぶとするなら、厳島神社と福原(現・兵庫県神戸市兵庫区)を外すわけにはいかない。どちらも瀬戸内海に面しているが、これは偶然ではなく、瀬戸内海を中心とした中国・四国地方と九州北部、いわゆる西国こそ、平氏の台頭を語る上で不可欠の地域だった。
平氏と西国との関係は清盛の祖父・正盛、日宋貿易への参画は父・忠盛の代に始まる。清盛はそれらの成果に加え、大輪田泊(現在の神戸港)を福原の外港にすべく大改修を施し、唐船(外洋航海が可能な大型船)でも通航可能になるよう音戸の瀬戸(広島県呉市にある海峡)を開削するなど、日宋貿易のさらなる進展と平氏による独占を推進。一門を挙げての厳島参詣と納経も果たす。福原への遷都は半年にも満たずして失敗に終わるが、一連の振興策の結果、宋から大量の銅銭(宋銭)が流れ込み、およそ100年後の鎌倉時代末には銅銭による納税が主流に。礎を築いた清盛こそ貨幣経済の先駆者と呼ぶに値する。
以上は定説・通説とされてきたストーリで、これに従えば、平氏一門にとって西国における海賊退治や諸々の土木工事は投資で、西国武士団体との主従契約や福原への遷都はリスクマネジメント、中央では朝廷の要職を独占し、地方では全国の約半数の国守を務め、「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語できた状況はリターンと見ることができる。ただし、近年の研究により、これらの見方は若干の修正を迫られている。
白河・鳥羽両院の「忠実な猟犬」となった清盛の父と祖父
話は清盛の祖父・正盛(生年不詳−1121年?)の代にさかのぼる。政体は摂関政治から院政へ移行したばかり。朝廷の実権は白河院(上皇。1053−1129年)の手中にあったが、そんな白河院にも「天下三不如意」と言って、意のままにならない事物が3つあった。
「鴨河の水、双六の賽、山法師」がそれで、「双六の賽」とはサイコロの目、「鴨河の水」とは平安京の東を南北に流れる鴨川(賀茂川)の氾濫、「山法師」とは僧兵の強訴に代表される、比叡山延暦寺や園城寺、興福寺など大寺社による横暴を指していた。
大寺社による横暴に対抗するには武士の力を頼るほかなかったが、当時の武士では前九年・後三年の役(1051年と1083年に東北で起きた戦乱)の当事者である源頼義・義家一門が実力と知名度の両面で群を抜く存在だった。しかし、白河院とその後を継いだ鳥羽院(1103−1156年)は勝手な行動を取りがちな義家一門に対して信を置けず、都で奉仕する武士団の中でも弱小の部類に数えられる平氏一門に着目した。