島崎晋「投資の日本史」

「平氏にあらずんば人にあらず」の世を築いた平清盛 “瀬戸内海の掌握と治安維持”は投資であると同時にリスクマネジメントでもあった【投資の日本史】

白河上皇(画面右端の車の中の人物)を護衛する「北面の武士」の前身にあたる武官たち(東京国立博物館所蔵「春日権現験記絵巻(模本)」出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

白河上皇(画面右端の車の中の人物)を護衛する「北面の武士」の前身にあたる武官たち(東京国立博物館所蔵「春日権現験記絵巻(模本)」出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

 源義家一門が第56代の清和天皇(在位858〜876年)に源を発する河内源氏の嫡流であったのに対し、平正盛は第50代目の桓武天皇(在位781〜806年)に源を発する伊勢平氏の傍流。白河・鳥羽両院は正盛・忠盛父子であれば問題ないと考え、忠実な猟犬に育て上げることにした。いわば白河・鳥羽両院による投資である。

 武家の棟梁として名実相伴う存在とするには、受領国司の歴任や強訴の阻止だけでは足りず、実績を挙げさせる必要があった。そのため両院は一挙両得の策を選ぶ。瀬戸内海の海賊討伐がそれだった。

 瀬戸内海の海賊行為と言えば、藤原純友の乱(939〜941年)が有名だが、院政期の海賊は謀反を起こすわけでも、略奪を本業とする者でもなかった。その実態について、奈良・平安時代の軍制・国制を専門とする下向井龍彦(広島大学大学院教授)は、著書『武士の成長と院政 日本の歴史07』(講談社学術文庫)の中で次のように説明する。

〈有力寺社は、瀬戸内海沿岸の各地に港湾荘園をもち、武装した僧徒・神人たちによって独自の海運ルートを確保して、相互に競合していた〉

〈院政期の瀬戸内海では、石清水神人・祇園神人らが、荘園年貢を元手に上は権門勢家・国司から下は一般民衆までを相手に手広く出挙(*高利貸付)活動を行い、国衙や荘園の運京船に乗り込んで略奪的な債権取り立てを行うようになっていた。これが院政期の海賊の実態である〉

【※引用文〈 〉内の(*)は引用者による注釈。以下同】

一門を挙げての厳島参詣で「瀬戸内海掌握」を誇示した清盛

 ここにある「神人(じにん、じんにん)」とは神社の下級神官や雑役要員、「運京船」は都へ税を運ぶ船舶を指す。つまり、瀬戸内海沿岸の港湾は大寺社の支配下にあり、彼らは借金の取り立てを名目に都へ運ばれるはずの税(米や絹布)を奪い取っている。被害届は出されているが、朝廷にはそれを取り締まるだけの覚悟と武力に欠けていたということである。

 従来、源義家一門の関心は東国にばかり向けられ、海戦を伴う西国への遠征には気乗り薄だった。そこで白羽の矢を立てられたのが平正盛一門だったというわけだ。下向井は前掲書で両院の腹積りについて、次のように断言する。

〈白河院・鳥羽院が、正盛・忠盛を名実ともに源氏に代わる武家の棟梁に育て上げるために与えた機会が、海賊追討である〉
〈院の意図は、凱旋パレードで忠盛を武家の棟梁として認知させて昇進させ、西国武士を郎等として組織させることだった〉
〈それは同時に、有力寺社が港湾荘園と神人によって個別に握っている海運ルートを寸断し、平氏を通して瀬戸内海を掌握することであった〉

 単刀直入に言えば、正盛・忠盛父子は白河・鳥羽両院の駒であって、それ以上でもそれ以下でもなかったが、正盛・忠盛は西国武士との主従関係構築に加え、中央での立身出世に必要な私財の備蓄にも好都合なことから、両院の手の平の上で踊らされることに不満を抱かなかった。将来に向けての投資と受け止めたのである。

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