だが、清盛の考えは異なり、祖父と父が築いた礎を引き継ぎながら、清盛にはいつまでも駒や猟犬の立場に甘んじるつもりはなかった。長寛2年(1164年)9月、一門を挙げて行なった厳島神社への参詣と納経は多分に政治的な意味を帯びていた。
厳島神社は瀬戸内海の西端近くに位置していたから、これまた下向井前掲書の言葉を借りれば、〈厳島参詣は、平氏が瀬戸内海航路を掌握し航行の安全を保障していたからこそ可能〉なことで、〈瀬戸内海掌握を誇示する清盛のデモンストレーション〉以外の何物でもなかった。
清盛が改修した「大輪田泊」は国際貿易港ではなかった?
清盛にしてみれば、瀬戸内海の掌握と治安維持は投資であると同時にリスクマネジメントでもあった。運京船を無事に航行させることは朝廷の利益に適い、清盛の株をも大いに押し上げたからで、瀬戸内海の平穏は日宋貿易のさらなる発展にもつながった。
唐物に対する需要は12世紀後半になっても非常に高かったが、清盛はその便を図るため、自分の別荘のある福原の外港、大輪田泊の大改修に着手した。通説では、平氏一門が日宋貿易を独占したとまで言われてきた。
しかし、日本古代史と海域アジアを専門とする山内晋次(神戸女子大学教授)は、著書『NHKさかのぼり日本史 外交篇[9]平安・奈良 外交から貿易への大転換』(NHK出版)の中で、〈清盛とその一門はけっして、日宋貿易を独占的に支配し、その富を一手に集積するといった、特別な立場にあったわけではない〉、〈大輪田泊が清盛によって「国際交易港として」企画・整備され、多くの宋船の来航でにぎわったとする通説的理解は、根拠の薄い思い込みである可能性がきわめて高い〉と主張している。
その根拠として、〈平氏政権以前の時期における宋船の来着記録を網羅的に検索しても、大輪田泊への来航は一例も確認できない〉こと、〈平氏政権期以後、すくなくとも十三世紀ごろにかけて大輪田泊に来航した宋船の事例もまた、管見のかぎりみあたらない〉こと、〈清盛の登場を境に日宋貿易の状況が劇的に変化したことを物語る史料は、いまのところみあたらない〉ことなどを取り上げ、「音戸の瀬戸」の開削事業が後世に生まれた伝承と判明していることともあわせ、〈清盛による国際交易港としての大輪田泊の整備という「事実」自体がそもそも存在しなかった〉との結論を出している。
日宋貿易の振興という大前提こそがそもそもの間違いで、〈西国からのヒト・モノ・情報などの流れを都に入る前に確実に押さえ、管理することによって、一門の経済的・政治的な基盤を固めるということこそが、大輪田泊を確保し整備するという事業の最大の目的だった〉〈そのモノの流れのなかには、博多での貿易を通じて得られた唐物も含まれていただろうが、それはあくまで副次的なものだった〉はずで、日宋貿易に対する関心・態度は他の貴族たちと大きく異なるものではなく、〈貿易への関与の仕方は、ひとつの貿易船に関わりあう複数の有力出資者の1人というような立場にとどまっていた〉というのである。