もっとも、〈武家として初めて外交・貿易の中心に食い込んできたことの意味が認められるべき〉とするなど、山内も清盛の業績を否定しているわけではなく、下向井も前掲書に次のようにも書いている。
〈大輪田泊を修築した清盛は、瀬戸内海を航行するすべての遷京船に入港を義務づけ、防波堤のメンテナンスのために修築料を徴収した〉
〈入港の義務づけは、入港船舶の所属荘公(*荘園・公領)・積載物・積載量などをチェックすることを通して諸国諸荘園の運京船舶を管理統制し瀬戸内海航路を掌握することにほかならない〉
〈諸権門寺社は平氏の安全保障に屈服する限りにおいて、西国荘園から中央に貢納物を運上することを許容された〉
以上の分析から、清盛が大輪田泊を通じて瀬戸内海を行き来する物資の量や中身をすべて把握していたこと、清盛の不興を買った大寺社や貴族の船は足止めされ、税収を手にできない恐れのあったことなどがうかがえる。
清盛が晩年に強行した「福原遷都」の動機
いつの頃からか、清盛は福原への遷都を考えていたが、リスクマネジメントの観点からすれば、その動機は白河院がぼやいた「天下三不如意」のうち、鴨川の氾濫による首都機能の麻痺と、有力寺社の脅威・圧力から逃れるためと言うことができる。
有力寺社の脅威は治承4年(1180年)5月末、以仁王(もちひとおう。後白河天皇の第三皇子)の挙兵をきっかけに現実のものと化し、6月2日には福原への遷都を強行する事態となった。南都北嶺と総称される、都の北方に位置する比叡山延暦寺と園城寺、南都(奈良)の興福寺や東大寺に共同戦線を張られるのはさすがにまずく、挟撃を回避する意味からも、遷都が急がれたのである。
また、純粋に物流の観点からすれば、福原への遷都はメリットだった。福原なら氾濫の恐れのある河川はなく、西国からの物はすべて大輪田泊で陸揚げすればよい。何度も積み替えする手間も省けて、平安京とは比べ物にならない商業都市に成長することも期待できた。
これとは別に、清盛には皇統のリスタートを意図していたとの説もある。天武天皇の子孫から天智天皇の子孫への皇統の移行が平安京への遷都で飾られた前例に鑑み、平氏の血を引く皇統(安徳天皇は清盛の孫)の始まりを福原遷都で飾ろうとしたとの見方で、状況証拠からすれば、ありえない話ではない。
福原遷都の動機はどうあれ、祖父の代からの投資は無駄ではなかった。それを最も痛切に感じられたのは、平氏一門が寿永2年(1183年)7月25日に都落ちして、1か月後には九州の大宰府にまで逃れながら、そこから巻き返しに転じ、翌年1月に福原の奪回に成功した時ではなかろうか。西国に多くの種が撒かれていいたからこそできた形勢挽回で、平氏の相手が木曾義仲だけであれば、都への復帰も可能だったはずである。