16世紀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による統一政権ができる過程では、上杉、北条、武田、今川、毛利など多くの戦国大名が覇権を競い合った。その手段は武力ばかりではない。生き残りのために、妻や子を主君や他家に差し出す「人質」や「政略結婚」が用いられることもあった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第8回は「戦国時代の人質」について考察する。(第8回)
戦国時代の人質と言えば、家の生き残りのために、妻や子を政争の具として差し出す「悲劇的存在」というイメージが強いかもしれない。その代表格が幼き日の徳川家康や黒田官兵衛の子息の例だ。
黒田官兵衛(1546-1604)は播磨の人。中国地方の覇権をめぐり、東から織田信長、西から毛利氏の力が及びつつある状況下、播磨国御着城主の家老でありながら、織田信長の指図も受ける二重身分にあった。
官兵衛自身は、時流は信長に味方しいていると見ていたが、播磨とその周辺の国衆には毛利氏に親近感を抱く者も多く、官兵衛は彼らの腹の内を見抜けず、幽閉されたことがあった。官兵衛を幽閉した者たちは対外的に何も声明しなかったことから、黒田家の者たちでさえ、何がどうなっているのかわからずにいた。
そこで危機が及んだのが、織田家の人質として秀吉が預かっていた官兵衛の幼子・松寿丸(のちの長政。福岡藩初代藩主)だ。信長には官兵衛の寝返りを疑う心が膨らみ、ついには松寿丸を殺害するよう、秀吉の軍師・竹中半兵衛に命じる。
官兵衛をよく知る秀吉と半兵衛は官兵衛の寝返りを信じず、人質の殺害は取返しのつかない愚行としか思えなかった。とはいえ、信長はこの件に関していかなる説得も撥ね付けているから、これ以上の説得は意味をなさない。信長に知られたらただでは済まないが、秀吉と半兵衛は信長には始末したと嘘の報告をしておいて、松寿丸をひそかに匿うことにした。この判断と行動が正解であったことは、官兵衛の裏切りが事実ではなかったことで、ほどなく明らかとなる。
人質の生殺与奪は人質を取った側の君主の腹ひとつにかかっており、松寿丸の例は極めて稀なもの。普通は裏切りが発覚した時点、または裏切りと判断された時点で絶望的と考えてよく、それこそ、戦国時代の人質に関する一般的なイメージではなかろうか。
だが、戦国時代の人質も多種多様。松寿丸の場合とはまったく事情の異なる人質も存在した。竹千代こと、幼き日の徳川家康(1543-1616。今川家から離反するまでは松平元康)もその一例である。