家康の「惨めな人質生活」は後世の創作?
竹千代は人質として駿河の今川義元のもとへ送られるはずが、途中で誘拐され、尾張の織田信秀(信長の父)に人身売買された。2年後、織田・今川間に捕虜の交換がなされた際に今川側に引き渡され、当初の予定通り、駿府(駿河の国府)で人質生活を送るようになった。それから10余年、家康は駿府で惨めな毎日を過ごし、三河の家臣と領民は今川の圧政に苦しめられた。
以上はドラマや歴史小説の中でよく描かれるストーリーで、寛永3年(1626年)に成立した軍記物『三河物語』を典拠としている。
軍記物が初見ということは、家康の存命時に記された文献、比較的信憑性の高い史料からは確認できないとうこと。フィクションが相当加味されていることを意味する。
この点の分析に関しては、戦国時代と織豊期の政治社会を専門とする柴裕之(東洋大学非常勤講師)の著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社)や、中世史を専門とする黒田基樹(駿河台大学教授)の著書『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』(朝日新書)に詳しい。両書によれば、『三河物語』が描く幼少期の家康に関し、明らかに史実と異なるのは以下の点という。
【1】誘拐と人身売買
【2】織田家での人質生活と人質交換
【3】駿府での惨めな生活
【4】今川家による西三河の岡崎併合
【5】今川の圧政に苦しむ三河家臣団と三河の領民
2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、信長に誘拐された家康が信長に怯えながら織田家で人質生活を送った様子、人質交換で今川家に送られた話などが回想として描かれていた。
『三河物語』でもこのあたりを、家康の重荷を背負った人生の始まりとして描いているが、最近の研究によれば、家康が経験した実際の人質生活は惨めどころか、大変恵まれたものだった。たとえば事の始まりだが、黒田前掲書は、〈広忠(*家康の父)は今川家に従属し、今川家から援軍を獲得〉しており、広忠が亡くなった時、〈竹千代はわずか8歳にすぎず、領国統治や織田方との抗争で軍事行動することは無理であった。そのため竹千代は、今川家の保護下に置かれて、駿府に送られることになった〉とする。
【※引用文〈 〉内の(*)は引用者による注釈】
同じく黒田前掲書によれば、〈竹千代の立場は、今川家に従属する国衆の岡崎松平家の当主というもの〉で、〈松平家と岡崎領は、今川家の保護下におかれたことにともない、領国統治は今川義元によって担われた〉が、義元が何から何まで決済にあたったわけではなく、〈実際の領国統治や家臣団統制は、松平家の家老たちによって担われていた〉。つまり義元は、〈年少のため政務をとれない竹千代に代わって、松平家の当主権限を行使した〉のであって、〈義元の行為は、いわば松平家の当主代行といいうる〉というのである。
これが史実であるなら、三河松平家と今川義元は双方とも、戦国時代という油断のならない弱肉強食の社会にあって、以下に示すとおり、半ば博打に近い投資とリスクマネジメントをしていたと言える。