三河松平家と今川家の「投資とリスクマネジメント」を兼ねた選択
三河松平家は独力では尾張織田家の侵略を防ぎえなくなったから、併合や搾取、いいように利用されるばかりのリスクを承知の上で、駿河の今川家を頼ることにした。それくらい追い詰められていたと見ることもできれば、自力では次期当主を頼りがいのある人物に鍛え上げることができそうもないから、教育費用からあらゆる手間まで一切合切を今川家に丸投したと見ることもできる。現在で言うなら、投資とリスクマネジメントを兼ねた選択である。
投資とリスクマネジメントという点では、人質を迎えた今川義元も同様だった。将来的に敵対する可能性のある人物を忠誠心溢れる家臣に育て上げる。頼れる人材に育てるためにはコストを投じる努力を惜しまず、最高の教育を施す必要がある。婚姻関係を結び、一門の一角に加えれば、裏切る可能性を大幅に減らすこともできる。敵国との最前線を任せられる人物になってくれれば、投資のリターンとしては十分すぎるだろう。
その結果はどうなったのか。史実が伝えるとおり、家康は先鋒を任せられる頼もしき武将へと成長を遂げ、今川家はますます戦力を向上させることができた。これで尾張を平定することができれば、上洛も夢ではなくなる。今川家の先行きは明るさに満ちていた。
家康は駿府で今川の重臣、関口氏純の娘(のちの築山殿)を正室に迎えているが、黒田前掲書はこの点に関しても大きな意味を読み取っている。大名家や国衆家の子女において、10代初めの婚約は、決して珍しいことではないことから、家康も「駿府に移住したのち、しばらくのうちに築山殿と婚約していた可能性を想定できる」とする。関口氏純は単なる重臣ではなく、今川家御一門衆の1人だから、その娘と結婚した家康は〈今川家の親類衆とみなされるものとなった〉。よって、〈今川家での立場は、決して悲惨なものではなかった〉というのである。
家康が駿府に連れてこられたのは、織田方との最前線に立つ国衆として相応しい人間に育て上げるため。教育に当たったのは家康の祖母にあたる華陽院と、臨済宗の僧侶でありながら今川家の軍師とした活躍した太原崇孚(雪斎)で、雪斎は当時の日本全体から見ても屈指の叡智。華陽院は直接教授にあたるのではなく、然るべき人の手配に力を尽くしたようだが、何にせよ幼少期の家康が極めて恵まれた教育環境に身を置いていたことは間違いない。
黒田前掲書は、家康が受けた厚遇から〈今川家における立場は「人質」ではなかった〉との見方を示している。さらに、父・広忠の早期の隠居により、〈家康が国衆岡崎松平家の当主であったから、「人質」とはみなされない〉としているが、国元に残された家臣たちの気持ちも考慮するなら、やはり「人質」という表現が妥当だろう。