「インテリ嫌い」の毛沢東は「革命」こそが人生逆転のツール
橋爪:毛沢東の時代に実はもう、マルクス・レーニン主義を都合よく解釈し直しているんです、中国共産党は。マルクス主義はもともと世界同時革命の「インターナショナリズム」なのに、それを、中国統一のための「ナショナリズム」に書き換えた。だから毛沢東に戻って、議論を始めるべきなんです。
毛沢東は、どういう人物か──。毛沢東は「出遅れた」人間です。それがどうしようもないルサンチマン(怨念)になっていて、それに衝き動かされた一生だった。
峯村:毛沢東は中国共産党創立時(1921年)からの党員ですが、生まれは清朝時代の1893年、湖南省の長沙郊外にある農村です。裕福な家庭だったようですが、軍人で地主だった父親のしつけは相当厳しかったようです。
橋爪:毛沢東は、父親を憎んで育ちました。父親はあこぎで冷酷な人間で、農民に辛くあたり、家族も虐待していた。いい思い出はひとつもなかったように思う。
毛沢東は地元の師範学校に進みました。でもいちばんいい学校ではなかった。彼の青年時代は、清朝が滅んで中華民国が成立し(1912年)、中国が本格的に近代化に歩み出した時期です。いい家の青年は海外に留学したり、事業を始めたりしていた。それにひきかえ、毛沢東はパッとせず、鬱々とした気分で過ごしていたのではないか。
峯村:師範学校卒業後は北京に移り、北京大学図書館の司書補の仕事に就いています。
橋爪:その話は有名ですね。上の学校に進めなかった。毛沢東が勤めている図書館には、偉そうな教授たちや、モダンななりをした学生たちが本を借りにくる。立派なインテリばかりです。颯爽とした知識人たちと比べて、自分は惨めに思えたろう。それが毛沢東のインテリ嫌いの原点です。毛沢東はインテリ(知識分子)を憎悪し、政権をとったあとも生涯にわたって知識人を憎む、反知性主義の人間になってしまった。
その後、毛沢東は、共産主義に興味をもって、共産主義者に接近します。中国共産党の設立大会にも名を連ねている。なぜ、マルクス主義に興味をもったのか。それは、共産主義の思想に共鳴したというよりも、一発逆転の大勝負に賭けたのだと思う。マルクス主義は暴力革命で、政権の奪取を目指します。知識人よりも共産党のほうが偉いのです。これは気持ちがいい。自分の先を進んでいい気になっている知識人連中を追い越し、見返してやる、というどす黒い野心のようなものが沸き上がった。
毛沢東は、政治闘争に長けていて、のちに中国共産党の指導者となってからも、冷酷に政敵を打倒していきます。とても沈着で、とても大胆。ふつうの人間ならできないような冷たい決断ができるところが怖い。だから偉大な指導者だともち上げられたが、身近にこんな人物がいたら周りの人間はたまったものではない。
峯村:その見立ては非常に面白いと思います。中国語で書かれた文献を含めて毛沢東について書かれた記録などを読むにつれ、「共産主義を信奉し、熱い思いで革命運動に身を投じた」というイメージとは違う人物像が浮かんできます。
私が毛沢東を一言で言い表わすなら、“リアリスティックなファイター”です。共産主義についても、信念というよりも「革命」こそが自らの人生を逆転するのに有効なツールとして利用したのでしょう。主義主張ではなく、使えるものは何度でも利用し尽くす。典型的なプラグマティック(実利的)な中国人だったのだと思います。