コミンテルン(共産主義インターナショナル)の中国支部として出発した中国共産党は、毛沢東の指導のもと、新中国(中華人民共和国)となって政権の座についた。なぜ、多くの中国国民が毛沢東、中国共産党を支持したのか。中国の歴史や文化、社会に精通する社会学者の橋爪大三郎氏と、元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が考察する(共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)。【第6回。文中一部敬称略】
橋爪:マルクスの暴力革命論に乗っかって、激しい闘争に明け暮れた毛沢東のやり方は、「革命的ロマン主義」とも言うべきものです。
ではなぜ、そんな危険なパーソナリティの持ち主が共産党のリーダーになったのか。そして、中華人民共和国を成立させるほどの、全人民的支持を得ることができたのか。それは、ナショナリズムの育たなかった中国で、中国の人びとにナショナリズムとは何かを教えることができたからです。
清朝は満洲族による征服王朝で、人口の大多数を占める漢族の国ではなかった。清朝が崩れたあとに成立した中華民国は、ナショナリズムに立脚するはずだった。でもたちまち軍閥に分裂してしまい、誰が中国のリーダーなのかわからない混沌とした状況になった。そこへ日本軍が侵略してきた。それに抗するには、中国が全体としてまとまらなければならない。学生や知識人の間から「自分たちは中国人だ」というナショナリズムの意識がじわじわと高まってきて、コンセンサスになっていった。
では、そのナショナリズムを体現する強力なリーダーは誰か。中国共産党のトップになった毛沢東が、私だと躍り出て、最終的に中華人民共和国を成立させた(1949年)。そういう段取りになっている。軍事組織を従える共産党を率いる毛沢東には、その準備と意思があり、人びとにはそれを支える意欲があったのです。
峯村:闘争しなければ外圧にやられてしまう。そういう危機感を清朝が滅亡寸前だった幼少期からもち続け、ナショナリズムの重要性を身に染みて感じていたからこそ、毛沢東はそれを人民に“教える”ことができたのでしょう。
橋爪:そもそもナショナリズムは、人びとに共通の文化、伝統、歴史、運命共同体の意識がなければ、生み出されないのです。相談や交渉によって、ナショナリズムをつくり出すことはできない。
ヨーロッパの歴史を見ても、ナショナリズムが生まれるには長い時間がかかります。なかでも時間がかかったのはドイツとイタリアです。スペインやフランス、オランダ、イングランドはまあ早かった。
中国と対照的なのは日本です。日本で割とすんなりナショナリズムが成立した理由は、島国という地理的条件。あと、外国に攻め込まれて政府が作られた経験がなかったことです。さらに加えて、日本には天皇がいました。天皇をナショナリズムのシンボルとして担ぎ出すことができた。日本はそのシンボルのもとに団結すべきで、外国に対抗しなければならない。これが明治維新のやり方で、大東亜共栄圏の考え方です。そういう天皇がいたので、日本は恵まれていたのです。