低所得者層を直撃
現実には、世界はシンボルエコノミー化しています。国民国家の主役である雇用者の実質賃金が趨勢的に下落しているからです。日銀が「過度の物価下落」を懸念して事実上のゼロ金利政策に踏み切ってから30年近くが経過しています。2022年4月以降、消費者物価は日銀が目標としている前年同月比2.0%を超えて上昇し、2022年4月から2024年7月までは平均して前年同月比3.0%となりました。
この間、名目賃金は前年同月比で1.7%しか上昇していないので、物価変動を除いた実質賃金は同1.8%下落しています。とりわけ、2023年の実質賃金は前年比2.5%も下がり、1971年以降で、2014年の消費税率5%から8%への引き上げ時(前年比マイナス2.8%)に次ぐ大幅な下落となり、リーマンショック時(前年比マイナス2.3%)を上回りました。ロシア・ウクライナ戦争の物価への影響がいかに大きいかがわかります。
日銀はデフレ脱却を最優先し、消費者物価が持続的に(少なくとも2年以上)年2.0%上昇し、その後再び2.0%以下に鈍化することがないと確信できるまで、マイナス金利政策を続けると表明しています。2022年の消費者物価(生鮮食品を除く総合)は前年比2.3%上昇し、2023年も3.1%と、目標値の2.0%を上回っています。2024年1~7月の前年同月比も平均して2.5%上昇となっているので、ほぼ3年連続で日銀の目標が達成されたことになります。
しかし日銀は、ロシア・ウクライナ戦争とイスラエルとハマスの戦闘が終わったあとにエネルギーと食料品価格が下落して、将来2.0%以下になる可能性があると判断しているようです。これが「異次元金融緩和」政策を変更することができない理由です。
根本的には、実質賃金の下落で国民の生活水準が下がっているわけですから、インフレ抑制を優先してマイナス金利政策を解除するのは無理なのです。景気に対して抑制的に働き、一段と実質賃金の低下を招きかねないからです。外国為替(外為)市場もそれを見透かしており、円安が一段と食料品やエネルギー価格の値上がりに拍車をかけています。
その結果、エンゲル係数が上昇し、低所得者層を苦しめています。とりわけ、下位2割の低所得階層(定期収入5分位1)のエンゲル係数に、高騰が続く電気代の対消費支出を加えると、2024年1~3月期は1985年以降で最高に達します(図表4)。「異次元金融緩和」政策は解除しても、継続しても国民生活を苦しめることになっているのです。
食料と電気は生存のために不可欠な支出です。下位2割の低所得世帯では、生存に必要な食料費と電気代を合わせた支出額が消費支出の33.6%にも達しています。1985年以降でもっとも低かった2012年で27.4%だったので、6.2%ポイントも上昇しました(全世帯平均では5.5%ポイントアップ)。所得の低い世帯ほど選択的支出が制約され、生活が苦しくなっているのです。
エンゲル係数(電気代を加算)が全世帯平均で5.5%ポイントも上昇したということは、家計所得の購買力が事実上5.5%ポイント低下したことを意味しています。とりわけ低所得世帯では6.2%ポイントの低下になります。食料費は1日3食を2食にするわけにはいきませんし、電気代も急にエアコンの使用をやめるわけにはいきません。これらは、生存にかかわる生命維持費です。
2012年と比べて、2024年1~9月平均の実質賃金は8.6%も低下しています。2013年から異次元金融緩和で円安が急速に進んだことで、ほとんど輸入に頼っている食料と原油価格が円建てで上昇したことが大きな原因です。
※水野和夫・著『シンボルエコノミー 日本経済を侵食する幻想』より一部抜粋して再構成
【プロフィール】
水野和夫(みずの・かずお)/経済学者。1953年、愛知県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、埼玉大学大学院経済科学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト、内閣府大臣官房審議官(経済財政分析担当)、内閣官房内閣審議官(国家戦略室)、法政大学法学部教授を歴任。著書に『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)、『次なる100年』(東洋経済新報社)、山口二郎氏との共著に『資本主義と民主主義の終焉』(祥伝社新書)など。最新刊は『シンボルエコノミー 日本経済を侵食する幻想』(祥伝社新書)。