毛沢東の「15年以内にイギリスを追い抜く」との宣言がきっかけで始まった「大躍進政策」では、約3年の間に中国全土で数千万人が餓死したとされる。その背後には、「毛沢東主導の権力闘争」があった――。中国の歴史や文化、社会に精通する社会学者の橋爪大三郎氏と、元朝日新聞北京特派員のジャーナリストでキヤノングローバル戦略研究所上席研究員の峯村健司氏が読み解く。(両氏の共著『あぶない中国共産党』より一部抜粋、再構成)【シリーズの第11回。文中一部敬称略】
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峯村:数千万人が餓死することになる大躍進政策で、誰も毛沢東を止められなかったのは、このころに毛沢東にすべての権力が集中する「一強体制」が確立されていたからでしょう。当時の国防部長で毛沢東の右腕だった彭徳懐が1959年、廬山会議の席で実地調査の結果を報告して、「ひどいことになっています。大躍進をやめましょう」と進言しました。すると、毛沢東は完膚なきまでに彭徳懐とその部下らを叩きまくった。その結果、彭徳懐は失脚に追い込まれました。
橋爪:井岡山(江西省の山間部)のゲリラ時代(1927年に毛沢東は労農紅軍を率いて同山を根拠地に革命の実験を始めた)から毛沢東を支え、朝鮮戦争では中国義勇軍の司令官も務め、勇敢で人望の厚い軍人だった彭徳懐ですが、その率直すぎる諫言が毛沢東の逆鱗にふれ、こっぴどく批判され、打倒されてしまいます。文革の時にもひどい扱いを受け、監禁状態のままみじめに病死したのもこのためです。代わりに軍の実権は、林彪が握ることになりました。
廬山会議は、大躍進を総括し、毛沢東を批判するはずが、あべこべに、毛沢東の主導する権力闘争にすり替えられた。これが大躍進の開始から1年後の出来事です。その翌年も大躍進は続けられ、1961年にようやく終わりますが、それまでに数千万人がもう死んでしまっていました。
農民は本来、食糧がなくなれば、村を捨ててよそに逃げ出すものなんです。そうやって自分と家族の生命を守った。清朝でも、明や宋も、ずっとそうだった。ところが中華人民共和国では、解放軍の兵士が銃をもって並び、逃げたら撃ち殺すぞと、移動を禁じたのです。だから大躍進は、中国共産党が農民を踏みつけにした人殺し政策なんです。それ以外の何ものでもない。