毛沢東の責任追及を「できる人がいなかった」
峯村:この期間に何人が亡くなったか。中国政府の資料である『中国統計年鑑』などを見ると、大躍進の期間だけで1700万人くらい人口が減っていることがわかります。いくつかの中国共産党の内部文書では、だいたい4500万人が犠牲となったという統計もあります。
人肉食の被害や、飢餓で子どもが生まれなかったことなども加味すると、その倍は亡くなっているとの指摘も可能になる。その意味で、毛沢東の責任は非常に大きいと言わざるを得ません。
橋爪:しかしそのことを共産党は、認めていないし反省もしていない。大躍進政策の後始末に、毛沢東に責任を取らせるのが順当だったのです。でも、それをすると、中国共産党や中華人民共和国の正統性に疑問符が付くことになる。だからできなかった。
それなら、毛沢東を名誉職の国家主席に棚上げし、党中央軍事委員会主席と政治局常務委員から退かせて、実権を奪えばよかったのです。そうすれば、共産党は軌道修正ができた。でもそれを怠った。それだけのことを、できる人がいなかった。
峯村:当時の文献を見ると、私は後者、「できる人がいなかった」のだと思います。やはり、1959年に大躍進政策の中止を進言した彭徳懐が失脚させられたことが大きい。
ただ、ひとつ補足すると、1962年の中央拡大工作会議(七千人大会)で、第二代国家主席の劉少奇が大躍進による飢饉について「三分の天災、七分の人災」と評価し、党中央の誤りを認めました。それを受けて毛沢東は自己批判を行ない、いちおう、総括をしようとしていた。しかし、結果から見ると毛沢東の自己批判はあくまで“したふり”であって、その後の文化大革命では劉少奇への攻撃を始めました。
橋爪:毛沢東の権威を傷つけるようなことを考えたり、実行したりするのは、反革命そのものなんです。天皇制でいうなら大逆罪みたいなものです。ふつうの人は恐ろしくて、とてもできない。毛沢東の権威を相対化できない構造になっていったことが、中国の過ちをとても深くしたと思います。
大躍進の後始末ができずに、権威主義的な政権がずっと続くことになったので、文化大革命を避けることができなかった。数千万人の人命をもう一度犠牲にし、国の資源と10年間の時間を浪費した。最悪の結果となったわけで、中国の人びとがこんなに過酷な歴史をたどらざるを得なかった運命を思うと、暗澹たる気持ちになります。
(シリーズ続く)
※『あぶない中国共産党』(小学館新書)より一部抜粋・再構成
【プロフィール】
橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)/1948年、神奈川県生まれ。社会学者。大学院大学至善館特命教授。著書に『おどろきの中国』(共著、講談社現代新書)、『中国VSアメリカ』(河出新書)、『中国共産党帝国とウイグル』『一神教と戦争』(ともに共著、集英社新書)、『隣りのチャイナ』(夏目書房)、『火を吹く朝鮮半島』(SB新書)など。
峯村健司(みねむら・けんじ)/1974年、長野県生まれ。ジャーナリスト。キヤノングローバル戦略研究所主任研究員。北海道大学公共政策学研究センター上席研究員。朝日新聞で北京特派員を6年間務め、「胡錦濤完全引退」をスクープ。著書に『十三億分の一の男』(小学館)、『台湾有事と日本の危機』(PHP新書)など。