「読み書き算盤」以前に「道徳」が必要だった
林羅山は家康・秀忠・家光・家綱の4代将軍に仕えた儒学者で、家光から与えられた上野忍ヶ丘に私塾と文庫を建てた。神田の昌平坂に移転してからは、旗本の子弟を教育する幕府直轄の学問所となる。現在の湯島聖堂はその後裔にあたる。
文官の育成が緊急かつ必須となったのは全国の諸藩も同じで、これは譜代・親藩か外様かに関係なく、共通の問題に直面させられていたことに起因する。その問題とは、商品経済の発達に伴う物価の上昇だった。
藩の規模が石高で表わされたことに象徴されるように、各藩の財政は米に依存していたから、武士の給与も現物支給が原則だった。支給されたのは精白米ではなく玄米で、武士たちはそれを札差という業者を介して現金に換えてもらったが、戦のない世ではさしたる昇給は期待できない。札差が払う禄米の卸値以上に物価(商品価格)が上昇すれば、武士の手取り収入が目減りするのは避けられなかった。
藩自体の収益に関しても同じことが言えた。新田開発にも限界があるから、収益を増やすには米作りを維持しながら、商品作物の栽培や農業以外の分野に進出しなければならない。そのためにはまずアイデアが出せ、責任をもって指導や管理もできる人材の育成が必要だった。
求められた人材は読み書き算盤に達者で、しっかりとした責任感を持ち、進取の気概に溢れる者だが、それ以前に、どんなに生活が苦しくても人としての道を踏み外すことのない強固な道徳観念の持ち主であることが必須とされた。金に目が眩んで私腹を肥やす者、領民からの搾取に走る者ばかりになっては一揆を招来しかねず、そうなれば藩の評判を落とすだけでなく、最悪の場合、お家取り潰しの恐れもあったからだ。
ゆえに人材の育成は必ず、「経済」という言葉の語源となった「経世済民(世を上手く治め、人びとを苦しみから救うこと)」の志の植え付けと並行して進めねばならない。そのための教育機関として設立されたのが藩校であり、時期や地域によって藩学とも呼ばれた。
藩主の緊縮財政が岡山名物「ばら寿司」を生んだ?
日本初の藩校は備前岡山藩主の池田光政(1609-1682)が寛永18年(1641年)に開設した花畠教場で、光政はこれに加え、手習所という庶民のための教育機関を領内に123か所も設けており、武士かそれ以外に関係なく、藩全体の底上げを意図していたのは明らかだった。
後世、光政が水戸藩の徳川光圀、会津藩の保科正行と並び、江戸時代の初期の三大明君に数えられるのは、教育に限らず、民政や土木など、中長期的な利益につながる改革や事業を展開したからだが、あまりに手を広げすぎた感は否めない。ただでさえ台所事情が苦しい中、必要な予算を確保するため、自身と藩士だけでなく、領民全体を対象に、食膳は一汁一菜とするなどの質素倹約を奨励した。