徳川家康が幕府を創始してから260年続いた江戸時代。武家政権による幕藩体制を敷きながら、「天下泰平」をいかにして実現したのか。その成功の鍵となったのが、「教育」を通じた人材育成だったという。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第13回(前編)は、「武士の思想改造」になぜ儒学が用いられたかを考察する(第13回・前後編の前編)。
豊臣秀吉は天下統一の過程から刀狩りを進め、統一達成後は身分の固定化と一部大名の国替えを行ないながら、大陸への出兵を計画していたから、戦時体制を解除することはなかった(詳しくは別記事〈豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった〉参照)。
これとは対照的だったのが徳川家康である。征夷大将軍となった家康は江戸に幕府を開くが、幕府とは朝廷から国防と天下の安寧を委託された武家政権。そのため建前上は慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還まで、準戦時体制が維持されたが、家康は海外進出の野心がないことを内外に示すとともに、豊臣家を滅ぼした直後の元和元年(1615年)6月には一国一城令、7月には2代将軍徳川秀忠の名義で武家諸法度を発し、全国的な軍備の削減とこれからの武士のあるべき姿を明示した。
武家諸法度はその後何度もの改定を経て、下剋上や私闘、無許可の仇討の禁止に加え、一揆や謀反が起きても幕府に報告して許可を得てからでないと武力鎮圧は許されず、隣藩との係争を話し合いで決着できない時は幕府に裁定を委ねるべきとも明文化された。さらに島原の乱の平定(1638年)後は、いわゆる鎖国体制の完成に伴い、異国による侵略の脅威も遠のき、武士が戦闘要員として活動できる余地は限りなくゼロに近づいた。
泰平の世が到来してからは、徳川将軍家はもとより全国の諸藩も秩序の維持を第一とし、多すぎる戦闘要員を文官に転身させる必要が生じた。そのための対策はすでに家康時代から始められており、中国文学を専門とする加藤徹(明治大学教授)は著書『本当は危ない『論語』』(NHK出版新書)で次のように言い表わしている。
〈信長、秀吉、家康の三人のうち、家康だけが子々孫々にわたり権力を維持できた。その秘密は、家康が金地院崇伝や林羅山など、漢文の知識に精通したブレーンの入れ知恵で、儒学による武士の思想改造を行ったことにある。
信長は武力で、秀吉は財力で天下を支配したが、最終的に失敗した。家康は、信長や秀吉と違い「漢文の思想の力」も利用した。これは成功した〉
ここで言う「漢文」は儒学の基本経典、すなわち『論語』を始めとする四書五経を指している。家康とその後継者たちは、四書五経で説かれる君臣・父子・夫婦間の三つの道徳(三綱)、人として守るべき仁・義・礼・智・信の五つの道義(五常)こそ、秩序の維持や社会の安定にもっとも有益と判断したのだ。幕府による儒学の重用は、為政者によるリスクマネジメントとしての側面が大きかった。