同じ儒学の中でも、中国・宋の朱熹(1130-1200)に始まる朱子学に対し、陽明学は明の王陽明(1472-1529)を開祖とする。幕府が朱子学を正統としたのは権威と秩序を重んじる教えだったからである。対する陽明学は自分が善、正義と信じることをとことん追求し、その思いを行動で表わすよう促す教え。既存の体制を揺るがす危険性を帯びていたのだから、幕府がこれを異端認定したのも無理はなかった。
けれども、列強の艦船が頻繁に近海に出現する緊迫した状況下、既存の体制や秩序では危機を乗り越えることはできないとの危機感から、藩政改革に踏み出す藩もあった。その成功により、比較的経済的に余裕のある雄藩で、陽明学が広く受け入れられ、具体的な行動に出る者が続出したのは、260年続いた徳川幕府によるリスクマネジメントの失敗というより、時代の趨勢でもあった。
庶民の「読み書き算盤」能力を支えた丁稚教育と寺子屋
話を江戸時代の教育に戻す。「幕末の日本は識字率世界一」と言われることが多い。少なくとも幕末の日本を訪れた欧米人はそう受け取っていた。
藩校の中には庶民にも門戸を開いていたところがあるが、それだけで全体の識字率が大きく上がるわけではない。識字率の高さを支えたのは丁稚教育と寺子屋に負うところが大きかった。
江戸時代中頃以降、京都・大坂・江戸の三都と諸大名の城下町を中心に商業経済が浸透し、商家はなくてはならない存在と化したが、そこでは農家の二男以下を住み込みで雇う習慣が広まった。無給であらゆる雑用をこなす丁稚から、働きぶりや能力に応じて、手代、番頭と出世し、暖簾分けを許されるか、商家の主(旦那)に女子しかいない場合、娘婿として跡取りに選ばれる可能性もあった。
だが、いつまでも読み書きと算盤ができないのは店の恥でもある。そのため丁稚奉公の開始とともに、手代か番頭、旦那の夫人が読み書きと算盤を教えるのが当たり前となった。これが丁稚教育である。
それに対して寺子屋は都市部の庶民だけでなく、農村の子弟をも対象とした初等教育機関で、農村部では僧侶や神官、都市部では浪人が教師を務めることが多かった。
親が子を寺子屋に通わせた理由は都市部と農村部で異なる。都市部では向学心や詐欺被害の回避、および玉の輿を目指して箔をつけるのが主目的であったのに対し、農村部では村請制という制度への対応が最大の要因だった。