浮世絵師・奥村政信が描いた三井越後屋(江戸駿河町)の店内(Getty Images)
「江戸時代の経済」といえば、江戸、大坂、京都からなる「三都の繁栄」や各地における「産業・交通の発達」、「貨幣経済の浸透」などがキーワードとして挙げられる。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第14回(前編)は、その江戸時代初期に商人として“ビジネス革命”を起こし、のちの三井財閥、今日の三井グループの礎を築いた「三井高利」に焦点を当てる。【第14回・前後編の前編】
目次
日本の3大財閥系グループと言えば、三菱・三井・住友の3グループを指す。なかでも三井家の財閥化への道は、江戸時代前期に「三井越後屋」を大きく育てた三井高利(1622〜1694)に始まる。高利の比類なき商才は、その母の背を見ながら育ったことに由来しているのかもしれない。
三井高利は「商才に長けた母」の四男として生まれた
三井家の発祥の地は伊勢松坂、現在の三重県松阪市にあたる。南伊勢の沃野の中心に位置する伊勢松坂は、近くに良港を持ち海上交通の便がよく、周辺の農村で繰綿や木綿の生産が盛んだった。なかでも織豊政権時代に城主を務めた蒲生氏郷(1556〜1595)が楽市楽座を施行し、伊勢神宮に通じる道路筋を変更して、嫌でも城下町を通過せざるをえないよう仕向けたことで大きく発展した。
三井家の歴史は三井高利の長男・高平が著わした『家伝記』と三男・高治が著わした創業の記録『商売記』に詳しい。両書によれば、南近江の戦国大名・六角氏に仕えた越後守高安(高利の祖父)が家祖とされている。六角氏の滅亡後、高安は伊勢松坂に移住して町人となり、長男の高俊を地元の豪商の娘・殊宝と縁組させた。三井家は質屋を本業としながら、酒・味噌・茶・煙草なども商っていたが、高俊自身は連歌や俳諧を好む道楽者で、実際に店を仕切ったのは商売の現場を見ながら育った妻の殊宝(高利の母)だった。
殊宝は勤勉なうえ商才に長けていた。貸付金利を他店より低くすることで得意先を増やし、質流れの品を処分するにしてもできる限り高値で買い取ってくれるところを見つけ出していたという。店にお使いで来た者にも茶や煙草、時には冷や飯を振る舞うなど、利益を増やしながら好感度を上げることにも余念がなかった。「越後屋」の屋号を用い始めたのも殊宝が店を仕切っていた時と伝えられる。
高俊・殊宝夫妻には4男4女がおり、彼らもみな殊宝のやり方を見て育ったわけだが、母の影響を最も色濃く受け継いだのは四男の高利だった。