日本経済を牽引する2大グループとして知られる、三菱グループと三井グループ。財閥の勃興期から150年にわたり、互いに競いながら成長してきた歴史を持つ。『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書)の著者・菊地浩之氏が言う。
「明治期に海運業を独占した岩崎彌太郎の三菱に対抗して、三井は井上馨や渋沢栄一らと手を組んで共同運輸会社を設立しました。1889年の三池炭鉱払い下げの競争入札でも両者は激しく争い、三井が僅差で三菱を下して三井三池炭鉱をスタートしました」
大正期に財閥経営が安定すると「重工業の三菱」と「貿易の三井」の棲み分けがなされた。当初は歴史の古い三井が圧倒的に優位だったが、戦争期に軍需産業が急成長した三菱が猛追。戦後の財閥解体後は組織秩序を重んじる三菱が一足先に再結集し、系列企業と結びついた三菱銀行の資金力を背景に三井を逆転した。
両者の明暗が大きく分かれたのが、戦前からの因縁がある鉱業だった。
「1950年代のエネルギー革命に危機感を抱いた三菱鉱業の大槻文平社長は人員整理を断行し、石炭に代わる新規事業として三菱鉱業セメントを設立し、現在の三菱マテリアルの礎を築きました。一方で戦前は物産、銀行と並ぶ『三井御三家』だった名門・三井鉱山はエネルギー革命に乗り遅れて経営破綻し、2003年に産業再生機構の管理下に入った。その後、新日鉄・住友商事・大和証券連合に買収され、2009年に日本コークス工業になりました」(菊地氏)
戦後は三菱の後塵を拝した三井が一矢を報いたのが、「夢の国」の誘致だ。三井不動産は1960年に京成電鉄らとオリエンタルランドを設立し、千葉県浦安沖の埋立事業を経て、ディズニーランドを誘致した。同時期に三菱地所も富士山麓を候補地とし、両者は熾烈な誘致合戦を展開した。
「当初は富士山ブランドを武器にした三菱が有利とされたが、1974年にヘリで浦安上空を視察した米ディズニー視察団は、首都圏に近い立地の良さなどで浦安への進出を電撃的に決定しました。三井にとっては大逆転勝利でした」(菊地氏)
※週刊ポスト2020年1月3・10日号