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島崎晋「投資の日本史」

【為せば成る】勤倹だけでは終わらなかった米沢藩主・上杉鷹山 両替商への「プレゼン」から領民向け「救荒食品の手引書」まで「攻めの藩政改革」の全貌【投資の日本史】

明治14年(1881年)に描かれた上杉鷹山の油絵(東京国立博物館所蔵の「上杉鷹山像」より。出典:ColBase  https://colbase.nich.go.jp)

明治14年(1881年)に描かれた上杉鷹山の油絵(東京国立博物館所蔵の「上杉鷹山像」より。出典:ColBase  https://colbase.nich.go.jp)

 江戸時代後期、倹約と殖産興業などで藩政改革を目指した米沢藩主・上杉鷹山は、多額の借金で失なわれた信用の回復、家臣の抵抗などにも直面せざるを得なかった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第15回(後編)は、上杉鷹山の藩政改革について解説する。【第15回・前後編の後編。前編から読む

 日向国高鍋藩に生まれ、10歳で出羽国米沢藩8代藩主・上杉重定の養子となった上杉治憲(鷹山)。米沢藩江戸屋敷桜田邸で同藩江戸家老だった竹俣当綱、侍医の藁科松伯、儒者の細井平洲から英才教育を施され、17歳で家督を継ぐと、崩壊寸前とも言えた藩財政の立て直しに向け、自ら勤倹生活を徹底し続けた。しかし、支出を減らすだけでは藩政改革にならない。鷹山は藩の収入を増やすため、新たな施策に打って出た。

 どこから手をつけるにしても先立つ物が必要だが、投資のための資金を得るには商業・金融業を生業とする有力商人の力を得なければならない。しかし、当時の米沢藩は過去の借金返済と利息支払いの遅延という問題を抱えていたうえに、先代・重定の重臣だった森平右衛門の不実な政策が重なり、新たな融資に応じてくれる商人は藩の中にも外にも見出せなかった。

 信頼を回復させるにはケジメと誠意ある姿勢を見せるしかない。竹俣当綱による森平右衛門の誅殺(1763年)は鷹山が家督を継ぐ前の出来事だが、藩政立て直しに向けたケジメとして十分と受け止められた。

 竹俣はこれをテコに内外の商人のもとへ頭を下げて回り、とりわけ江戸の両替商、三谷三九郎から好感触を得ていた。三谷を口説き落とすには専属の担当者が必要と判断した竹俣は、馬場頼綱という下級役人ながら俳諧や和歌を嗜む文芸通で、実務能力にも長けた藩士を指名。馬場は三谷家の手代に近づき、徐々に信頼を得ることから始め、頃はよしと判断したところで、喜左衛門という手代相手に交渉に臨み、とうとう米沢視察に関して同意を得ることに成功した。

江戸の両替商を米沢に招き「改革」を全力でプレゼン

 喜左衛門が米沢を訪れたのは、鷹山が家督を継いで7年が過ぎた安永3年(1774年)9月のこと。竹俣と馬場は漆蝋(うるしろう)の加工場、新築の備米蔵、桑畑開作場、青苧蔵など、改革の目玉となる施設を案内してまわった。

 その時の様子について、近世史を専門とする小関悠一郎(千葉大学教授)は著書『上杉鷹山 「富国安民」の政治』(岩波新書)中で〈喜左衛門に対して現地でプレゼンを行い、米沢藩の産業の現状、改革の成果と可能性のアピールに全力を尽くした〉と表現している。

 同書によると、喜左衛門が帰途に就く段には、竹俣から喜左衛門に一冊の小冊子が手渡された。それは〈漆・桑・楮・紅花・藍等々の産品の生産見込み〉や〈飢饉対策としての備米蔵の設置状況までを説明〉した竹俣自筆の殖産計画書で、「地の利を尽くして国産品生産を振興するため、三谷家が融資に応じてくれるよう、くれぐれも頼み入る」とも書き添えられていたという。

 こうした米沢藩側の熱意と期待は三谷三九郎にも十分伝わり、三谷は新規の融資を承諾。これを呼び水として、融資に応じる商人が多く現われ、米沢藩の改革はいよいよ本格化したのだった。

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