数年〜10数年がかりの一大灌漑事業にも着手
竹俣が小冊子にも書き添えた「地の利を尽くす」について、小関前掲書は、〈これまで経済的利益に十分結びつけられてこなかった場所も含めて、領内の土地を最大限に産業利用〉することと説明する。
そのためには実情の把握が不可欠で、鷹山は自ら郷村を巡回するに留まらず、領内260か村を12に区分し、それぞれに郷村出役を配置。領民と親しく交わることで、その土地に合う商品作物は何か、不足しているものは何かなど、地域の実情に合った開発方法を模索させた。いざ開発事業が開始されると、藩士にも労役奉仕を命じ、のちには藩士の二男・三男、伯父・甥などを対象とした土着令(武士を農村に居住させる命令)も公布した。
不足しているのが苗木であれば無償で提供、資金であれば自身の仕切料(衣食・交際費など)を割いた鷹山だが、灌漑用水となれば簡単にはいかない。北東部に位置する北条郷33か村が慢性的な水不足と聞くと、南部の松川上流から延々8里(約32キロメートル)にも及ぶ「黒井堰」の築造を命じ、3年の歳月をかけて完成させた。
また中部を流れる白川の水量が乏しいと聞くと、水量豊富な玉川から水を引くべく、標高2105メートルの飯豊山に全長200メートルの導水トンネルを掘るよう命じ、20年の歳月をかけて完成させた(穴堰)。この2つの大事業には莫大な経費を要したが、その恩恵が遠く現在にまで及ぶことを考慮すれば、必要かつ有効な投資に数えることができる。
抵抗勢力を粛清した「七家騒動」
およそ改革には抵抗勢力がつきもだが、鷹山の改革は江戸在勤の側近たちとの話し合いだけで始められただけに、国元の、それも譜代の老臣たちの反発は強かった。さすがの鷹山も弱気になり、改革の撤回が脳裏をよぎりもしたが、最終的には藩主としての責任感が弱気に勝り、抵抗勢力の8人を粛清する決断を下した。
理論的指導者にして焚き付け役と思われる儒医の藁科立沢(藁科松伯との血縁関係はない)は討ち首、老臣7人のうち須田満主と芋川延親には切腹、その他の5人には隠居閉門と知行の没収が言い渡された。しかし、「改革の成果が挙がれば改心するのでは」との期待に加え、おそらくは藩内にしこりを残さぬようにとの配慮から、藁科の討ち首は実行しながら、ややあって須田と芋川は減刑、その他5人も閉門を解かれた上に知行も回復された。
「七家騒動」と呼ばれる安永2年(1773年)に起きたこの事件は、幕府の介入前に事を収める非常措置の一面を有していたと言える。