上杉鷹山の命により刊行された『かてもの』。飢饉の際に民を救った(国文研等所蔵『日本古典籍データセット』より)
凶作や飢饉に備えた食料備蓄、「非常食の手引書」も作成
さらに加えて、鷹山は、自然の驚異により何度も繰り返される危機への対策も講じていた。旱害、冷害、多雨など様々な要因で起こり得る凶作や飢饉への備えである。
豊作の年に余剰の米を備蓄する。そのような仕組みや施設を義倉と言い、本来は任意拠出による自治的性格なものだが、鷹山は藩士、町家、郷村ごとに備籾蔵・備米蔵を設けることを義務付けた。これがあれば凶作・飢饉が餓死に直結することはなく、飢えに起因する農民の逃亡や農地の荒廃も防止することができる。まさしく古くて新しいアイデア、一石二鳥の策であった。
鷹山の飢饉対策と言えば、「かてもの」も挙げないわけにはいかない。「かてもの」とは、米や麦などの穀物と混ぜて炊き合わせる食材または救荒食物のこと。凶作や飢饉で食糧が減った際、「かてもの」で少ない主食をかさ増しするなどして、少しでも満足感を高めることを意図していた。
鷹山から「かてもの」に関する手引書の作成を命じられた莅戸善政は、藩の侍医や薬師などと共同して、食用となりえて健康に害のない動植物を調べ上げ、享和2年(1802年)、その名も『かてもの』という手引書を作成。藩内で1500部以上を頒布した。
それから30年後に起きた天保の飢饉(1833〜1839年)に際し、米沢藩での餓死者が他藩より格段と少なくて済んだのも「かてもの」のおかげだった。以来、他の藩もこれに倣い、その後も20世紀の昭和農業恐慌や終戦直後に至るまで、食糧難が起きるたびに参照され、大きな効果を発揮することとなった。
一連の改革の成果により、米沢藩は鷹山の永眠から1年後の文政6年(1823年)、借金の完済を成し遂げたとされる。一切踏み倒しをせずの完済は稀有な例である。その多難な道のりを思えば、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という鷹山も名言も、より深く心に響いてくる。改革の成果が挙がるまで、我慢強く勤倹生活に耐えてくれた藩士と領民も大したものだが、鷹山が身をもって手本を示したこと、藩校の興譲館(1697年設立の学問所を再興して1776年に設立)を通じての意識改革も、大きく寄与したに違いない。
荒蕪地が目立った米沢盆地は豊かな大地に変わった。明治11年(1878年)に同地を訪れたイギリスの紀行作家イザベラ・バードが「エデンの園」「アジアのアルカディア」と讃えた光景は、鷹山が後世に残した最大の遺産でもあった。
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【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。