時は万治元年(1658年)、仙台の伊達藩で次のような法令が発せられた。
「前々よりしていても、今後は頼母子をしてはいけない。そのために寄合をすることは、不要な出費でもあり、これからは堅く禁止する」
これに対して村人は連名で意見書を提出。禁止されれば何かと支障が生じるので、寄合の酒食はやめにするから、頼母子自体はこれまで通り、隠密に続けさせて欲しいと嘆願した上で、次のように書き添えた。
「もし御公儀様へ露見し、庄屋・肝煎が処罰される場合には、村中全員が出頭して、庄屋・肝煎に落ち度はないと弁明し、お詫びする」
ここにある「肝煎」は庄屋と同義で、名主とも呼ばれる。地域によって名称が異なるだけで、村や町の代表者である点に変わりはない。横田前傾書はこのやり取りを記した後で、頼母子の取り締まりとそれへの対応について、次のようにまとめている。
〈頼母子とは中世からある講形式の庶民金融のことで、小百姓の年貢納入も含めて、在地の経済活動の不可欠の一環として存在していたのである。そうした在地の実情や慣行を無視した領主法令は、形式上は請けられたものの、隠密にて行うというこの取り決めによって実質的に拒否された。というより、禁止の理由とされた講寄合での酒食は自粛されているから、法内容に対する自主的な取捨選択が行われたといえよう〉
要するに、とりわけ農村部においては、頼母子講は経済活動の一部と化していた。1回あたりの掛け金は定かでないが、個々の内では貧富の差に関係なく均等であったはず。構成員のすべてがリターンを受け、誰一人損をしない仕組みを守るため、自分が当たったらもう掛け金を支払わないという勝手は許されない。いくらお上の命令であっても、途中で廃止しては不平等が生じ、不和の種になるのが目に見えていたから、当せん者がちょうど一巡した時でもなければ、やめるわけにはいかなかった。
こうした平等かつ公平を重んじた頼母子講の仕組みは、庶民が“地縁”を守るリスクマネジメントとして機能したと言える。