これは伊勢講に限らず、富士山の遥拝とその麓に点在する浅間神社への参拝を目的とする富士講でもいっしょだが、講のメンバー、御師とその御師が属する寺社、街道上の宿場町など、江戸時代後期の旅の流行は誰もが得をする上手い仕組みとなっていた。
御師の役割は現在で言うツアーコーディネイターに当たり、現地ガイドも兼ねている。彼らに相談すれば、別料金で予定にはない場所にも行ける。伊勢参りにもそれがあり、その講が男性だけで構成されていれば、訪れる場所は決まっていた。
このあたりの事情について解説した記事は多いが、比較的近いところでは、『歴史人』ウェブで2021年9月9日に配信された小説家・永井義男による記事〈江戸時代に庶民の間でブームとなった「売春ツアー」とは!?〉が挙げられる。
同記事は、〈講は信仰を目的に掲げていたわけだが、男の団体旅行ということもあって、実際には途中の宿場で、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女と遊ぶのも楽しみだった。中には、女郎買いが目的で講に参加する者も少なくなかった〉としたうえで、〈講による団体旅行は、「売春ツアー」の一面があったと言っても過言ではない〉とまで言い切っている。
さらに同記事には〈その最たるものが「精進落し」であろう〉ともあり、代参講全体に見られる傾向を以下のように記している。
〈寺社に参詣したあと、あるいは霊峰から下山したあと、男たちは精進落しと称して、呑めや歌えのどんちゃん騒ぎをし、女郎買いをしたのだ〉〈そうした精進落しの需要に応じるため、有名な神社仏閣の門前には、たいてい多くの女郎屋が集まり、遊里(ゆうり)が形成されていた〉
そして〈伊勢神宮も例外ではなかった〉として、〈伊勢神宮の外宮(げくう)と内宮(ないくう)を結ぶ街道の途中に、間の山と呼ばれる丘陵があり、ここに古市(ふるいち)遊廓があった〉と言及。〈天明期(1781〜89)には、妓楼は七十軒を数え、遊女は千人を超えた〉ともある。その規模は同時期の吉原には及ばないまでも、品川宿の2倍の規模。伊勢講による経済効果が途轍もないレベルであったことがうかがえる。
経済的講は現在の信用金庫や信用組合、信仰的講は旅行代理店の先駆けと言って間違いなく、江戸時代には複数の講を掛け持ちするのも珍しくなかった。箪笥預金には盗難や火災による焼失の不安がつきまとうが、講に提供していれば心配は不要。信仰的講でも信者の奪い合いなどなかったから、こちらも掛け持ちが可能だった。誰も不利益を被らない仕組みを目指した講から学ぶことは少なくないだろう。
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。