Jリーグチェアマンの村井満氏、公立中学校の校長を務め、教育改革実践家でもある藤原和博氏など有名OBが多く、「人材輩出企業」と呼ばれるリクルートホールディングスは、今年で60周年を迎えた。時代とともに業態を進化させてきた同社の今後を、峰岸真澄社長(56)に訊いた。
──このシリーズではまず、平成元年(1989年)当時について伺っています。
峰岸:私は立教大学を卒業して1987年にリクルート(現・リクルートホールディングス)に入社しましたが、学生時代から接点がありました。
イベントなどを手がけるサークルに所属しており、ある企画で協賛をお願いするため、リクルートに営業したことがあったんです。
他の会社では、まず窓口担当者に折衝し、その後、課長、部長、役員と段階を踏む必要がありました。ところがリクルートでは、最初にプレゼンした20代半ばの担当者が即座に数百万円の協賛を決断してくれたんです。
起業する前に3年間はビジネスの修業をしたいと考えていた私は、若手社員にも権限を与える自由闊達な社風を産み出すメカニズムを勉強しようとリクルートに入社しました。
──最初の配属先は、中古車情報誌「カーセンサー」だった。
峰岸:当時スタートしたばかりの情報誌でしたが、私の主な仕事は中古車販売店様へ中古車の広告掲載を提案する営業でした。
お客さまの元に通いながら、営業として価値を発揮することはどういうことか、お客さまの売り上げを増やす、成長に寄与するにはどうしたらよいか、試行錯誤する日々でした。結果的に取引社数も拡大し、雑誌の売り上げも伸びていわゆるトップセールスマンになりました。
そんななか、入社3年目を迎えました。「そろそろ起業かな」と考え始めた矢先、社内で再び新媒体の立ち上げにかかわることになりました。結婚情報誌の「ゼクシィ」です。
1993年の創刊後2年ほどは不調でしたが、出会いや交際、結婚までを網羅的に取り上げていた誌面をブライダル情報に特化させたことでブレイクしました。