弟を出産した母親は、フルタイムで働いていた工場をやめて内職をしていた。安月給の義父の給料だけでは暮らしが立ち行かない。できれば内職をやめて外に働きに出たい。だから、「部活はやらせられない」と(私にそんな説明があったわけではないけど、親の話を聞いていればたいがいのことはわかるわよ)。結局、部活は「近所の同級生がみんなやるから」と言うと、「終わったら早く帰って来い」と折れたけど、オシマ婆さんの介護の手伝いは残った。
ほぼ寝たきりになったオシマ婆さんは、「ヒロコ、これ捨ててきてくれねぇか」と私を呼ぶ。おまるの中の大小便を捨ててくれと言う。小さな家なので、内容物がどちらかは、茶の間にいる母ちゃんにもわかる。小なら見て見ぬふりだけど、大となると母ちゃんが怒り出す。「おばあちゃん、出世前の子供にそんなことさせちゃなんねぇど」と。
「わかってっけど、しゃーんめな」と婆ちゃんは小さな声で私の目を覗き込む。嫁の母ちゃんに言いにくいから、中1になったばかりの私に頼んでいるのよ。で、間に挟まれた私はというと、大小便の後始末はイヤだけど、私の“出世”をめぐって争われているのは、決して悪い気がしないんだわ。
それでもオシマ婆さんの立場は日に日に悪くなる一方だ。義父も小さなことで怒鳴り出し、家の空気はますます悪くなる。そのたび、小さな弟は背中を丸めて畳の縁にミニカーを並べ、「ブーブーブー」と動かしながら、聞こえないふりをしていた。
「その“なんとか苑”ってとこ、行くべな」
翌年の春、認知症が進んでいたオシマ婆さんが、やけにキッパリ言い出した。母ちゃんが町の福祉課に相談したら、老人ホームを紹介された。そこはいわゆる「養老院」で、“姥捨て山”的な空気が漂い、行く方も送り出す方も重ったるさがつきまとった。
母ちゃんも義父もよほど気が咎めたのだろう。毎週のように、日曜日になると「○○苑」に見舞い、私も何度か同行した。オシマ婆さんは入居して2か月半後にそこで亡くなった。
と、ここまでの話を私は誰にも話したことがない。なぜって、人に理解してもらえるとは思えないからだ。
「ヤングケアラーなんてありえない。学校はどうするのよ。介護に時間を割かれたら、成績が下がっちゃうじゃない」などと言う人に、「障害をもった親や祖父母を施設に預けるお金がないから、無料労働の中高生に頼るしかない」なんて言ってもわかるまい。