2019年に6年間務めた国会議員を辞し、還暦を機に再びワタミの会長兼CEOとして経営の第一線に舞い戻った渡邉美樹氏。コロナ禍によって、ワタミの屋台骨の事業は居酒屋から焼き肉店へ大転換を図っている。その言動がたびたび話題を集める外食業界の名物トップは、飲食業界受難の時代の勝ち残り策をどう考えているのだろうか。
──平成元年(1989年)当時は何をされていましたか?
渡邉:1984年に創業(ワタミの前身・渡美商事)した頃は居酒屋「つぼ八」のフランチャイズ店を手がけ、1986年に現社名に商号変更したタイミングでお好み焼き店の「唐変木」を始めました。
お好み焼きは1枚1200円ぐらいで、ワインと一緒に召し上がっていただくような“ステーキハウスのお好み焼き版”です。同時に始めた宅配は1枚2000~2500円。今では考えられない値付けですが、バブル景気に乗って大ヒットしました。1989年はまさにそんな時期でしたね。
創業時から自社ブランドの飲食店展開は視野に入れていました。当時は人件費が高騰していた時代ですので、食材原価を抑えられる業態でないと難しい。そこで低コストの「粉もの」で勝負しようと考えたのです。
──ワタミの始まりが「お好み焼き」とは意外ですね。
渡邉:大阪ではお好み焼き市場が大きいのに、東京は小さかった。大阪ではお好み焼きはご飯の“おかず”ですが、東京ではそういう習慣はありませんからランチには向かない。そこで、お酒と一緒に召し上がっていただくようなスタイルなら成功すると考えたのです。
──その後、ワタミの代名詞である居酒屋事業に移行していきます。
渡邉:バブル崩壊とともに高価格商品の売上が落ちていくのは必然でしたので、新たな業態として居食屋「和民」を出店しました(1号店は1992年)。もともと「つぼ八」を手掛けていたので、切り替えはスムーズでしたね。
──バブル崩壊によってお好み焼きから居酒屋へ。現在はコロナ禍を受けて居酒屋から焼き肉店への業態転換を進めています。
渡邉:「クールジャパンの商材」になり得るということで、和牛には以前から注目し、研究していたんです。
寿司や天ぷらは「日本食」ですが、和牛は「日本素材」。素材なら輸出しやすいし、あとはその国ごとの食文化にマッチした活かし方をしてもらえばいい。国際競争力の強さが和牛にはあると感じました。