徳島県警を退職後は犯罪コメンテーターとして活躍する「リーゼント刑事」こと秋山博康氏の連載「刑事バカ一代」。秋山氏が機動隊勤務時代に体験した“危機一髪”について綴る。
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おはようさん、リーゼント刑事こと秋山博康です。
1979年に徳島県警に採用されたワシは警察学校と交番勤務を経て、機動隊勤務を命じられた。機動隊の柔道特別練習生として、来る日も来る日も柔道の特訓に励むのがワシの「任務」やった。
1982年島根国体の柔道軽量級には徳島県代表で出場した。対戦相手は日本代表候補で本来なら秒殺される実力差やったが、ワシは一計を案じた。試合前の会場で、後のロス五輪柔道60kg級金メダリスト(ソウル五輪では銅メダルを獲得)の細川伸二氏を見つけ、彼に「スマンが投げ込み練習の相手になってくれるか?」と持ちかけたんや。細川氏とはかつて合同練習で一緒に汗を流した仲だった。
練習中の乱取りで、ワシは誰もが知る細川氏をバッタバッタと投げ捨てた。細川氏が「秋山さん、絶好調ですね! 相手が気の毒ですね~」と周囲に聞こえるように言うと、対戦相手の顔が恐怖におののいた。ワシの作戦通り、本番ではビビった相手の腰が引けて、値千金の引き分けに持ち込めた。
柔道練習の合間には、機動隊の訓練が待っていた。機動隊の主な任務はデモや雑踏の警備で、ジュラルミンの盾や防具など約10kgを身につけて厳しい訓練に臨む。
機動隊2年目の1983年3月、アメリカの原子力空母エンタープライズが長崎の佐世保港に入港した。現地では、右翼団体や反戦団体による大規模かつ暴力的な反対運動が繰り広げられ、ワシらはデモ警備の応援で佐世保に派遣された。
フェリーで現地に向かう途上、鉢合わせた右翼の構成員に「お疲れ様ですっ。どちらの右翼部隊の方ですか」と聞かれたのはご愛敬や。その先に地獄が待っていた。