しかし、「戦国七雄」の実力は均等ではなかった。原作漫画には、趙の李牧の口を借りて、秦と楚を「上」とすれば、趙、魏、斉、燕は「中」、韓は「下」とする描写が見える。
南方の長江流域に広大な版図を持つ楚と、西方から東方への版図拡大を目指す秦が抜きん出ているということだが、面積で言えば、楚からみて秦は小国に過ぎない。この時代の中国では版図の大きさと国力は必ずしも一致しないが、秦の強国化はどのように果たされたのか。
前漢の歴史家・司馬遷の『史記』には、秦王・政の6代前の孝公が即位した頃、「秦は西方に偏しているので、中国の諸侯の会盟に参加せず、諸侯から夷狄をもって遇せられた」との記述が見える。秦の版図はいまだ人口密度が低く、漢字文化も十分に及んでいないため、文明の外扱いされていたことがうかがえる。
富国強兵に直結した「商鞅の変法」
自分たちを見下す相手を見返すには、強い国になるほかない。そのために大胆な手段に出たのは、先に名を挙げた孝公だった。
孝公は衛鞅(商鞅)という遊説家を抜擢。商鞅の説く「強国の術」を実行させることした。「商鞅の変法」と称される、2度にわたる改革がそれである。
「商鞅の変法」の対象は多岐にわたるが、富国強兵に直結する改革としては、一家に2人以上の成人男子がいる場合に分家を促し、分家をしない場合は人頭税を2倍にした点が注目される。
ただでさえ厳しい人頭税が2倍となれば、きちんと納められる家などめったにない。税の未納による処罰を逃れるには、2人目の男子が成人するまでに長男か次男のどちらかを分家させねばならなかった。分家した家の生活を成り立たせ、子孫を残させるため、隣近所で協力して結婚相手を探す。
分家する者あるいは分家した者が、できるだけよい土地を、よい条件で手に入れたく思うのは当然のことで、それには従軍して手柄を立てるのが一番の早道だった。