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島崎晋「投資の日本史」

【江戸のビジネス革命】“新参者”三井越後屋が商売敵からの壮絶な営業妨害を乗り越え“呉服商と両替商の二刀流”で盤石の経営を築き上げた秘密【投資の日本史】

三井越後屋の姿は数々の浮世絵として今に伝わる(写真は葛飾北斎『冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図』。Getty Images)

三井越後屋の姿は数々の浮世絵として今に伝わる(写真は葛飾北斎『冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図』。Getty Images)

 17世紀後半、将軍のお膝元として消費地としても急成長を遂げた江戸の地で、伊勢松坂(現在の三重県松阪市)出身の商家が大成功を収めた。のちに三越として知られる「三井越後屋」である。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第14回(後編)は、現在の三井グループの祖となった大商人・三井高利によるビジネス革命と、そこに反発した同業者たちの妨害について詳述する。【第14回・前後編の後編。前編から読む

 三井高利の手掛けたビジネス革命は「店前売」や「現金売り」などの商法だけではなかった。番頭や手代はもちろん、その他の奉公人に対する教育と管理も徹底しており、数次にわたり、詳細な諸規則を作成していた。詳細は元三井文庫理事で歴史学者の中田易直著『三井高利』(吉川弘文館)に譲るが、たとえば、江戸店開店に備えて定められた規則には次のようなものがある。

一、遊女狂いや、悪友との交際は、絶対いけない
一、昼夜無断で商売外の用で、外出してはいけない
一、衣類は木綿着物・木綿帯の外は、着てはならない。木綿着物でも人目に立つものは、着用してはならない

 一方的に通知するのでなく、書面で一同に提示した上で、全員に署名と書判(拇印)をさせる念の入りようで、その後の数次に及ぶ規則の追加で、奉公人は公私にわたりがんじがらめに縛られるが、すべては店の信用を保つため。「信用こそ第一」とする信念に基づいていた。

「大成功」が招いた呉服屋仲間による露骨な営業妨害

 延宝元年(1673年)に江戸本町一丁目(現・中央区日本橋本石町2・3丁目)の本町通(当時のメインストリート)に開店した時は次男・高富、三男・高治以下、手代や子供たちを併せ12人の構成だったのが、同4年には本町二丁目店(現・中央区日本橋室町2・3丁目)を新設。四男・高判を支配人に迎え、全部で13人で始めたのが、翌年には19人へと増員。それだけ繁盛していたわけである。

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