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【パンダがつないだ日本と中国】国交回復の1972年にカンカンとランラン初来日で「空前のパンダブーム」、日中蜜月を象徴した“友好の使者”

 上野動物園園長の福田豊さんが、当時の様子を記録から紐解く。

「当時、私はまだ中学生で熱狂のただ中にいました。大先輩たちの残した記録を読むと、当時世界中で7頭ほどしか飼育されていなかったジャイアントパンダを上野動物園で飼育管理することは本当に大変だったようです。喜びもあったでしょうが、未知の動物を飼育することへの不安や苦労が大きかったのでしょう。

 それでも空前のパンダブームが巻き起こってたくさんのかたに動物園に足を運んでいただき、動物園の職員としてはすごくうれしかったはず。未知の動物を育てるチャレンジに情熱を燃やしていたと思います」

 日本人を熱狂させたパンダは、まさしく「日中友好のシンボル」になったのだ。

「当時の日本国内は、中国との新しい関係が築かれることを歓迎するムードに染まり、高揚感が溢れていました。そのムードに花を添えたのが2頭のパンダです。以降、パンダは日中外交を語る上で欠かせない存在となりました」(家永さん)

日中蜜月を迎えてパンダは次から次へとやってきた

 カンカンとランランが初来日して以降、それまでの“国交断絶”から一転、日本と中国はパンダ外交を介して良好な関係を築いていく。1979年にはランランが腎不全で死去したが、中国政府は残されたオスのカンカンの「新しいお嫁さん」として、すぐにメスのホァンホァンを上野動物園に贈った。

 さらに1980年にカンカンが急死すると、日中国交正常化10周年にあたる1982年に、今度はオスのフェイフェイが来日。家永さんは、「中国の素早い対応の背景には、日中の強固な経済関係があった」と指摘する。

「日本は1970年代の終わりから対中ODA(政府開発援助)を開始し、中国の経済開発を支援していました。1970年代から1980年代にかけて両国の関係は『日中蜜月の時期』と呼ばれて、パンダは“友好の使者”の役割を担っていました」

 ホァンホァンとフェイフェイの間にはチュチュ、トントン、ユウユウと3頭のパンダが生まれた。チュチュは生後43時間で早逝するも、トントンとユウユウによって第二次パンダブームが隆盛。1992年、繁殖適齢期を迎えたホァンホァンにパートナーを与えるため、ユウユウとの交換でオスのリンリンが北京動物園から日本にやってきた。

「この年は日中国交正常化20周年という節目で、それを祝うというメッセージもあったはず。リンリンが来日したのは歴史上はじめて天皇皇后両陛下の中国訪問が実現した直後でした。日中の距離の近さを、パンダの活発な往来が物語っています」(家永さん)

(第2回に続く 特集「パンダがつないだ日本と中国の50年史」全文を読む

※女性セブン2024年6月20日号

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