戦争で国に接収された大銀傘
1940年頃になると、戦争の影が次第に濃くなっていく。
「甲子園で戦車大展覧会が開催され、1941年には戦況の悪化から、野球をはじめ多くの大会が中止となりました。
1943年8月には内野スタンドとアルプススタンドを覆う大銀傘(だいぎんさん)が金属類回収令により国に接収されました。これには『甲子園も金属を提出したのだから、みんなも金属を出すように』という見せしめの意味もあったようです」
1945年、甲子園にも焼夷弾が落ち、グラウンドに無数の飛弾が突き刺さった。また機銃掃射も受け、球場北側の「役員・関係者入り口」の鉄扉には、当時の弾痕がいまも数か所残っている(現在は甲子園歴史館に展示)。
戦後は米軍による球場徴収もあったが1947年にはグラウンドとスタンドが接収解除となり、同年には春の選抜と夏の大会が復活。
1951年7月には初のプロ野球オールスターゲームが開催され、同年8月にはジュラルミン製の銀傘が復活し、甲子園は人々の希望となっていった。
※女性セブン2024年8月8・15日号