大和政権が目指したのは朝鮮半島の「鉄」獲得だった?
現代人には実感しづらいかもしれないが、鉄器があるのとないのとではあらゆる面で雲泥の差が生じる。農機具のスキやクワにしても、石製・木製・青銅製と鉄製では作業効率が桁違いである。石製・青銅製武器と鉄製武器の優劣はあえて説明するまでもないだろう。
日本列島に鉄器がもたらされたのは弥生時代のことで、青銅器の伝播も同時期だった。ひとたび鉄器の利便性を知った者が好んで石器・木器に回帰することはなく、誰もが鉄資源の安定的な確保もしくは供給を望んだはず。そのためには産地を支配下に置くか、産地を支配する勢力と友好関係を築く必要があった。
列島内ではいまだ産地の発見に至らず、最も近い産地は朝鮮半島の弁韓だった。
西の馬韓が百済、東の辰韓が新羅へ成長したのとは異なり、弁韓では政治的統合がなされなかったが、4世紀には現在の慶尚南道金海郡を中心とした金官国が豊富な鉄資源と生産技術を糧として台頭。伽耶諸国の盟主のごとき立場を築き上げた。
金官国は『三国志』にある狗邪国をその前身とする。狗邪国は「倭の北の対岸」に位置し、「海を渡ること1千余里で対馬国に至る」とあるから、良港を持ち、早くから日本列島との往来に際し、表玄関の役割を果たしていたと推測できる。
金官国が影響下に置いた地域は弁韓の南部から東部。「かや」「から」の呼称は「狗邪」に、『日本書紀』が多用する「任那」の呼称は「盟主国」を意味する古代朝鮮語、つまりは普通名詞に由来するとの説が有力視されている。
金官国は鉄や先進技術を媒介として倭国と同盟関係にあり、他国から脅威を受ければ、倭国に出兵依頼をするのを常とした。世に名高い「好太王碑文」はその一面を伝える貴重な史料である。
好太王碑文の「任那加羅」は「金官国」を指すと見ていい
好太王とは高句麗の広開土王(在位391〜412)のこと。「好太王碑文」は同王の功績を称えるため414年に建立されたもので、以下のような内容からなる。
391年以後、倭がしばしば海を渡ってきた。
399年、百済が倭と通じたので、王は平壌まで南下して侵攻に備えた。
400年、新羅救援のため5万の兵を派遣。逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年、倭の水軍が西海岸沿いに帯方郡まで侵入したので、王はみずから兵を率いて迎撃し、壊滅的な打撃を与えた。
ここにある「任那加羅」は金官国を指すと見て間違いなく、「好太王碑文」の文面からは、倭国の軍勢が金官国の支援に留まらず、百済と手を組み、半島全体の均衡を破る動きを見せたことから、広開土王が新羅に援軍を派遣するとともに、みずからも出陣して大勝利を博し、その過程で金官国の城下まで攻め寄せたものと見て取れる。
金官国はこの時に受けた打撃を境として衰退に向かい、入れ替わるかのように5世紀後半には伽耶北部の大伽耶(高霊国)が台頭。北部から西部一帯の盟主となるが、金官国の復興を支援する倭国とは折り合いがつかず、倭国の側としても百済との同盟関係が太いパイプと化したため、無理にでも大伽耶に歩み寄る必要はなかった。
最終的なリターンは「大和政権による全国支配」だった
金官国はすぐに滅んだわけではなかった。倭国としては新たに百済との同盟が成立したこともあり、鉄器や鉄資源の供給に不安は生じなかった。それどころか、古代史を専門とし、『日本書紀』の記述や考古学史料を徹底分析した吉村武彦(明治大学文学部名誉教授)著の『ヤマト王権 シリーズ日本古代史(2)』(岩波新書)によれば、戦乱を嫌って金官国から避難する住民の中には知識人や陶工、鍛冶師、土木技術者などが多く含まれていた。
倭国がその主な受け皿となったことから、5世紀初頭以降の倭国は従来の鉄に加え、先進技術の恩恵を大きく受けられるようになった。それまでの鉄の扱いと同じく、亡命者と難民の集団は大和政権の一元管理下に置かれることとなり、これは大和政権にとって都合がよかった。
倭国が邪馬台国の直接の後裔か否かはともかく、4世紀までの倭国は大和政権を盟主とする緩やかな連合体で、大和政権も共通の王を頂く畿内豪族の合議政体に近かった。しかしもし、いずれ中華の王朝と肩を並べる気があるなら、地方豪族の独立性を弱める方向に、国のあり方を大きく改める(中央集権化する)必要があった。
最初から計算の内だったのか、それとも途中で気づいたのか、国家の大改造は大和政権が朝鮮半島への出兵を開始した時点から始まっており、その効果こそ期待されたリターンと言えそうだ。
いくら緩やかな連合体でも、海を渡る必要があるとなれば、外交と対外貿易、対外戦争、渡来人の管理は一元化せざるをえない。そこに生じた状況について、古代王権研究を専門とする熊谷公男(東北学院大学名誉教授)はその著『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社学術文庫)の中で、次のように記す。
〈これらの知識人・技術者などのヒトと鉄素材・先進文物などのモノを独占的に掌握した倭王権は、その再分配を通して各地の首長への支配力をさらにつよめていく〉
少し表現を変えて、次のようにも記す。
〈五世紀の倭王権は、半島ルートを通して入手したカラ伝来のヒトとモノを独占的に掌握することによって列島支配を推し進めていた〉
つまり、鉄と人材を取引材料に中央集権化を推し進めたわけで、鉄と人材の確保には朝鮮半島への度重なる出兵が不可欠だったのだから、半島への出兵は征服欲や面子のためではなく、投資に分類するのが妥当だろう。
一方、独立性を弱められた地方豪族の立場にからすれば、中央に逆らう気のないことをアピールする必要性を感じたはずだ。そのためのパフォーマンスとして、中央の様式に倣った古墳造りを活発化させたのかもしれない。
また、前掲著にはもう一つ注目すべき記述がある。
〈五世紀前半に半島から伝来した最新の農具や土木灌漑技術は、それまで耕作不能であった土地の開拓を可能にし、単位面積あたりの収穫も増大させていった〉
これら開拓事業に伴う人材派遣には中央の役人も同行したはずで、これまた中央権力を地方に浸透させるのに役立ったはず。埼玉県行田市にある稲荷山古墳は5世紀後半に築かれたもので、そこから出土した鉄剣には115文字からなる銘文が刻まれている。そこからは、被葬者の「オワケ臣」がワカタケル王(雄略天皇)の王宮に出仕し、身辺警護を担当していたと読み取れる。この時までに、中央の威光が地方の首長を圧倒していたことは明らかだった。
(シリーズ続く)
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。