島崎晋「投資の日本史」

「遣隋使」「遣唐使」──遭難率4割のハイリスク事業が200余年も継続された理由 人材を“複数の船に均等に”分乗させるリスクマネジメントも【投資の日本史】

東アジア情勢の軍事的緊張に応じて日本の改革が進んだ

 時期的に見て、645年に起きた蘇我宗家打倒の政変(乙巳の変。大化改新の始まり)は「朝鮮三国の集権化」と、672年に起きた大海人皇子(天武天皇)による皇位簒奪(壬申の乱)は「唐・新羅の脅威」と無関係のはずがなく、危機回避のためのリアクションだったと見てよいだろう。

 倭国の集権化は東日本、西日本の各地にある古墳から出土した埋葬品などからわかるとおり、鉄資源の再分配を通じて4~6世紀にも図られているが、7世紀以降のものはそれとは次元が異なる。唐に倣った行政システムを整えるとともに、それまでのあり方を制度化し、秩序の構築・維持のために儒教、鎮護国家のために仏教を最大限に利用するという非常に大掛かりな改革だった。

 701年の大宝律令の制定により初期の目的が一部達成されると、遣唐使の目的も変わり始め、702年に出発した第7次遣唐使は倭国から日本国への国号変更につき、唐(この時は則天武后の周)の承認を得ることを目的とし、それ以降は仏教と儒教の受容に比重が傾いた。

 仏教に鎮護国家の役割が期待された点は変わりないが、8世紀以降は仏教界からの働きかけもあって、呪力への期待が高まった。その期待に大きく応えたのが、天台密教を起こした最澄と、真言密教を起こした空海だった(804年出発の第14次遣唐使に随行。詳しくは後述)。

「遣唐使船」の遭難率を高めた「航路」「季節」の問題

 遭難率が約4割。遣唐使の航海が死と隣り合わせとなった理由はいくつかある。一つは航路の変更で、遣隋使と初期の遣唐使は朝鮮半島を経由し、陸地を見ながら航海することができたが、新羅との関係が悪化してからは東シナ海を横断しなければならなくなった。

 それでも、海の荒れやすい夏場を避ければ問題なかったが、公式の使節は唐の都で元旦朝賀の儀礼に参加するのが原則で、それに間に合わせるには、遅くとも台風シーズン真只中の9月には出発しなければならない。もっと早くに出発すればよさそうに思えるが、水夫の手配や積み荷の準備、乗船者の集まり具合など諸々あって、希望通りに事が運ばないのが現実だった。

 遣唐使の航海は往路だけでなく、帰路も危険に満ちていた。なかでも中国大陸を出航して直後と、日本列島を目前にしての遭難率が高く、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし 月かも」の歌で知られる阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や唐招提寺を開いたことで知られる鑑真も遭難を経験している。

 阿倍仲麻呂は717年出発の第8次遣唐使の一員で、望郷の念に駆られ、753年に第10次遣唐使船に乗って帰国を試みるが、出航して間もなく暴風に見舞われて安南(ベトナム北部)に漂着。命に別状はなかったが、帰国を断念せざるをえなくなった。

 一方の鑑真は同じく第10次遣唐使船でも、仲麻呂と別の船に乗っていたことから、同年のうち無事に日本への上陸を果たす。が、それまでに2回の遭難を経験しており、両目の視力をほとんど失っていた。

 出航直後の難関を盛り超えても、まだ最後の難関が残っていた。対馬海流に乗れるかどうかは生死の分かれ目に近く、これに乗れれば沖縄諸島から島伝いに北上していけばよいが、乗れなければ太平洋の大海原に流され、後は運に任せるしかなかった。

 このように、遣唐使の船旅は往復とも命がけだった。遭難すれば、巨額の投資と留学の成果が台無しになりかねない。

真言密教を興した空海も遣唐使船で唐に渡った(奈良国立博物館所蔵「真言八祖像のうち 空海」出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

真言密教を興した空海も遣唐使船で唐に渡った(奈良国立博物館所蔵「真言八祖像のうち 空海」出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)

複数の船団に使節や留学生らを均等に分乗させ「リスク分散」

 歴史書には明記されていないが、情況証拠からすると、倭国改め日本の朝廷は複数の船団を組み、役人も留学生・留学僧もすべて均等に分乗させることで、リスクの分散と軽減に務めた。

 どういうことかと言えば、奈良・平安時代の朝廷はあらゆる部門で「4等官制」をとり、遣唐使船にも必ず大使1人、副使1人または2人、判官・録事各数人が配置された。717年出航の第8次遣唐使より、4隻構成が定例化してからは、第一船に大使、第二船に副使、第三と第四船に判官と録事を乗せ、留学生も等しく分乗させることが定例化した。

 これ以降の航海で、4隻揃って帰国できたのは一度きりだったから、どれか1隻でも帰国できれば御の字というべきこのやり方は、当時としての最善の選択だったのかもしれない。

 ちなみに、804年に出発した第14次遣唐使には最澄と空海の姿もあったが、空海が大使と同じ第一船に割り振られたのに対し、最澄は副使と同じ第二船。留学僧までがひとまとめでなく、分乗させられていた。第14次遣唐使は4船構成で、第3船と第4船は往路で遭難しており、留学僧はその両船にも乗船していたはず。最澄と空海は運にも恵まれていたのだ。

 仮に遭難したのが第1船と第2船であれば、日本への密教伝来は別の留学僧の手で行われ、最澄と空海が歴史に名を残すことはなかったに違いない。

 帰りの船には留学僧たちが収拾した経典や様々な法具、大使が下賜された宝物なども積まれていたが、これまた悪天候に見舞われれば海の藻屑と化しておかしくないもの。遭難を免れ、無事に日本に陸揚げされた文物は日本の仏教文化や高度な審美眼を育成することに貢献した。

隋や唐から「取り入れなかった」制度や文物もある

 改めて遣唐使の果たした役割をまとめると、先進国を手本とした急速な改革に必要な文物の摂取と人材の育成と極論できる。明治日本の欧米に対する姿勢と同じである。違うのは、明治日本にはイギリスやドイツ、アメリカなど多くの手本があり、取捨選択が選り取り見取りであったのに対し、古代の日本は隋・唐の一択しかなかったところ。隋・唐が唯一の超大国であった以上、仕方のないことでもあった。

 けれども、当時の日本も何を受け入れ、何を拒むかの取捨選択はしており、宦官と科挙の制度、官僚の監視と弾劾を専門とする監察部門、一個の宗教としての道教(陰陽五行説をはじめ、道教の前身となった諸思想は受け入れ)などは日本の国情に合わないと判断されたか、受け入れがなされなかった。

 巨額の投資が必要な国家事業だからこそ、惰性で続けることは国益にかなわない。必要性が失われれば打ち切りにするのは当然のことだ。遣唐使もその例に漏れず、839年に大使が帰国したのを最後に遣唐使船が派遣されることはなく、894年には(大使に任命された菅原道真の建議により)正式に停止が決定された。

 明治日本は欧米列強を手本にすることで、急速な近代化を図ることができた。7~8世紀の日本も隋・唐という手本があったおかげで、効率の良い改革を進めることができた。大胆な改革をしようという時、手本があるとないとでは雲泥の差だ。仏教と儒教を補完材料とした新たな国家体制が固まると、以降の歴史が示す通り、外敵の侵攻を受けたところで、裏切りの続出や内部崩壊は起こりようもなくなっていた。

(シリーズ続く)

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

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